2026.10.05 小野 鎭
一期一会 地球旅 433 フランス逍遥(3) パリにて(飛び入り)
一期一会・地球旅 433 
フランス逍遥(3) パリにて(飛び入り)
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実は、この料理関係視察団は前年(1970)に出かけられる予定であった。3~4月にはかなりの人数、それも東京や大阪のレストランのシェフであるとか経営者、料理学校の講師や学生などが参加されることで準備が進んでいた。ところが、この年3月31日、日航機のハイジャック事件が発生、日本中を震撼させた。いわゆる「よど号」事件である。空の安全が脅かされ、多くの人が旅行を取りやめたり、旅行団の派遣が中止されるなど旅行業界も大きな打撃を受けた。当該グループも例外ではなく、参加を見合わせる人が続出、結局、視察は当面取りやめとなった。この年、秋ごろから海外旅行も次第に元に戻り、翌年、視察団は参加者も再募集、20数名の方が応募され、メンバーは当初からは少し入れ替わっていたらしい。1971年8月25名の方が出かけられ、ヨーロッパの有名レストランやホテル、料理学校の見学など、とても興味深かった。私もそれまでヨーロッパはかなり経験はしていたので、フランス料理やイタリア料理などはある程度知ってはいた。しかし、料理の内容であるとか、ワインなどの知識はあまりなかった。もっとも、生来、下戸でワインもビールも名前や産地のことは知ってはいてもほとんど、なめる程度であったので深く知ることはなかったというのが正直なところであった。この料理関係視察団の添乗で料理についていろいろ知ることができ、それ以後、旅行ではその知識などが役立ち、もっと知ろうと努めるようになっていった。但し、旅行中は有名レストランや名物料理を味わうことは幾度も経験しながらも、自分の生活は薄給の身、家計の維持と家のローンなどに追われて厳しい日々が続いていた。
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旅行が終わったその年の秋、沖縄返還協定反対闘争に関する全国的なデモや集会が頻繁に行われ、世相は騒然としていた。そして、11月、デモが不許可となったことで中核派などが機動隊と衝突、会場となっていた東京の日比谷公園では大乱闘となり、公園の中にあるレストラン松本楼が放火されて炎上、全焼するという悲劇が起きた。松本楼へは、世間の多くの支援が寄せられ、翌年、見事に復興されされ、オープン当日は新聞やテレビなどで一斉に報道された。毎日新聞には、「館は焼けても、歴史は燃えず。10円カレーで復活を祝う」と大きな文字が躍っていた。10円カレーとは、改装再オープンへの感謝として松本楼で行われた催しで、現在も行われている10円チャリティ・セールのこと。売上金は、交通遺児協会に寄付され、今はユニセフに寄付されているらしい。あのヨーロッパ視察団には、このレストランの常務取締役のK様が参加しておられ、焼き討ち事件が起きたときは私もお見舞いにうかがった。復活後、改めてお祝いに参上した時は、名物のカレーライスをご馳走になり、その味と名門レストラン松本楼の素晴らしさに敬意を覚えたことが思い出される。 

もう一つ、この旅行に参加されていたA氏のことも記憶に残っている。地域の学校給食用の食材などを納入していた会社の若い経営者であった。ヨーロッパ視察の翌年であっただろうか、以前からコックになるため修行してきたが、会社を整理してヨーロッパへ修行に行きたい。そこで、パリのレストランで下働きをしたいので紹介してもらえないだろうかと相談を受けた。彼の並々ならぬ決意を聴いて、私は、その時の現地手配をしていたツアーオペレーターのパリ支店長に相談した。彼は、かなりの期間パリに在住していた人物であり、パリのホテルや有名レストランなどには知り合いも多いと聞いていた。そこで何らかの伝手があるのではないかと思ったからであった。彼の話では、クリヨンホテル(オテル・ド・クリヨン)のシェフを知っているので、聞いてみようということであった。
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クリヨンと言えば、数あるパリのホテルの中でも名門中の名門、第一級のホテルである。コンコルド広場にあり、通りを挟んで右側にフランス海軍省(2015年まで)と並んでおり、左右対称の見事な美しさを見せている。広場の向こうにはセーヌ川を渡ると国民議会(ブルボン宮殿)が立っており、文字通り、パリの中心部である。18世紀のネオクラッシック様式の宮殿が1909年以来、ホテルとして使われるようになり、一般の宿泊客にも扉を開いたという。国賓などの宿舎となることはよく聞いていた。市内観光でガイドも良く説明するところである。そのホテルのシェフを知っているとは何ともすごいと半ば驚いた。但し、中には大言壮語する人もあるので実際にどこまでがほんとうだろうかと多少不安はあったが、彼に任せて成り行きを待った。 

暫くして、彼から連絡があった。話を通したので渡仏の準備をするようにとのこと。下働きの条件は、皿洗いからであった。それから暫くして、彼はパリへ旅立っていった。頑張っていると時々手紙が届き、機会があれば。修行中の彼に会ってみようと心掛けていた。その後、添乗でパリに行き、一度会ったが、苦労しているけれど頑張っているとの話であった。その後、どうなったかは残念ながら消息は分からない。帰国してコックとしてやっているのか? それとも、引き続きフランスかヨーロッパのどこかで働いているのか? 結局その後の彼のことについては分からいままになってしまった。 

1970年代、日本からの海外旅行者は年を追うごとに増えていき、パリは日本からの団体客などがルーブル美術館やモンマルトルの丘でもよく見かけたし、オペラ座近くの香水店などは日本人客であふれるほどであった。ツアーオペレーターのパリ営業所長としては、鼻息が荒かったのであろう。パリの超一流ホテルのシェフと懇意であったというN氏の話は本当であった。当時の高度経済成長時代が今も懐かしい。
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あの時の旅行代金は、25日間で54万5千円であったと記録にある。但し、レストラン等での試食代は、協会が手配されたし、代金も参加者は別途負担であったと記憶している。1971年当時、日本でのドル相場は1ドル=360円という固定相場であったが、この年、8月15日にドルはそれまでの360円という固定相場が廃止された。所謂、「ニクソンショック」であり、外為市場は大混乱となった。旅行団は、8月13日に帰国しており、もし、旅行中にこのショックが起きたとしたらどうなっていただろう? 今でも背筋が凍る思いである。あれから半世紀以上、ドル相場は、このところ、150円台後半である。円安が続くこの時代、あのヨーロッパ視察団の旅行代金は今であれば、いくらいになるのだろう? 

最後にもう一つ、おまけの話題。本年(2026年)9月16日のニュースで、1970年の日航機ハイジャックの「よど号事件」の犯人グループは北朝鮮に入って投降。犯人グループはいまも国際手配されている。その内の一人Aが先頃(9/12)亡命先の北朝鮮で死亡していたという情報が届いているとのこと。あの事件から56年、また歴史が一つ蘇ってきた。(以下、次号) 

《資料》 
・日航機よど号ハイジャック事件:_Wikipedia 
・松本楼全焼:日比谷の「松本楼」が炎に包まれた日:サライ 2016年7月2日版 
・日比谷松本楼:同社資料より 
・ニクソンショックとは:日本経済新聞、ビジュアル用語解説 2021年8月17日版 
・よど号犯人グループの一人、北朝鮮で死亡:朝日新聞 2026年9月17日版 

《写真、上から順に》 
・日航機よど号ハイジャック事件:NHKアーカイブス資料より 
・日比谷公園でデモ、松本楼全焼:NHKアーカイブス資料より 
・オテル・ド・クリヨン(Hôtel de Crillon):Wikipedia 
・昭和100年の証言、1971年ニクソンショック:日経ビジネス電子版資料より