2025.01.27
小野 鎭
一期一会 地球旅 346 タヒチの思い出(1)パペーテ

一期一会・地球旅 346
タヒチの思い出(1)パペーテ
タヒチの思い出(1)パペーテ
1974年2月24日、文部省派遣の海外教育事情視察団の添乗でニュージーランドのオークランド(AKL)からタヒチ島のパペーテ(PPT)へ向かった。その1週間前にウェリントン空港の税関で団員のお一人が日本へのお土産品としてビルマ(現ミャンマー)かタイで求められた民芸品が持ち込み禁止品と判定され、特別にボンド(保税)扱いでAKLの空港に別送されていた。この品物を無事回収することができ、それ以降パペーテからホノルルを経て無事に(?)日本に持ち帰られたらしい。オークランドから後は、話題になることも無かったのでスーツケースの奥深くかどこかにしまい込んで税関の目に触れることはなかったのであろう。第三者から見れば、取るに足らない細かいことかもしれないが当事者(お客様)にとっては、日本の家族などへの土産物として大切な品物。軽々しく扱うべきではないと解釈し、添乗業務の一つとしても自らに言い聞かせてきた出来事であった。

AKLからPPTへは、フランス系の航空会社UTAで飛んだ。今から半世紀前の航空会社であり、今では馴染は無いが、かつてはフランス航空(AF)に次ぐフランス第2番目の国際航空であり、フランスとアフリカや南太平洋の島々などかつてのフランス領土であった地域を結んでいた。1990年にAFに吸収されたとある。AKLとPPTの間には、22時間の時差があり、PPTに着いたのは同じ日の朝5時であった。実際の所要時間は4時間50分であった。現在、この区間は、ニュージーランド航空他数社が結んでいるが今も所要時間はほぼ同じである。昔は、DC-8などであった。DC-8は、「空の貴婦人」と呼ばれた名機であったが、今では世界中どこを見ても通常の航空会社の機材としては使われていないであろう。現在では、Boeing-787などの大型機が結んでいる。昔に比べると騒音や燃料効率、乗り心地などはずっとよくなっていると思うが、大型ジェット機の速度自体はほとんど変わっていないらしい。

さて、タヒチ島であるがソシエテ諸島最大の島であり、フランス領ポリネシアの中心地である。行政上では、フランス政府が国土防衛、移民、司法、高等教育、メディア、貨幣を分担し、高等弁務官が現地代表を務める。地方行政は、初等中等教育、税金、外貨交換、物価等を領土政府が所管している。但し、フランス領ポリネシアでの 通貨は、パシフィック・フラン(XPF)で1.00XPFは、0.838Euroと設定されているとのこと。135~140円くらいであろうか。フランスがヨーロッパ大陸以外に所有するフランスの領土を「フランス海外県」と呼ばれていたことを覚えているが、現在では、総称してDROM-COM(仏語:départements et régions d'outre-mer et collectivités d'outre-mer、海外県・海外地域及びコミュニティー)と呼ばれているとのこと。因みに、昨年夏のパリ・オリンピックのうち、サーフィンはタヒチ島のチョープー(Teahupoo)で行われた。サーフィンの名所として、世界的に知られているらしい。

フランス領ポリネシアの広大な海域にある島々にヨーロッパ人が訪れたのは16世紀末にスペイン人、そして17世紀になってポルトガル人、18世紀になるとイギリス人、フランス人などが来航しているが1769年に英国のジェームス・クックもタヒチ島を訪れている。18世紀末からフランス勢力が強まり、1842年にタヒチ島とモーレア島がフランス保護領となり、やがて植民地、1949年にフランス海外領土に昇格、1957年に大幅な自治権を獲得したとある。フランスは、ソシエテ諸島などを自国の領土にしていく中でタヒチなどを近代的なリゾート地として売り出し、世界的に名だたる場所へと変えていった。一方では、1966年から1996年にかけて、トゥアモツ諸島のムルロア環礁等で核実験を行っており、タヒチでは、住民の抗議集会に発展。フランス政府は、核実験がらみによる経済援助などで仕事を供給し、島民の台所を潤すなどの策も採ってきた。つまり、その代償として核実験によって珊瑚環礁などが破壊され、島民のプライドを奪っていたと言える。フランス政府は、核実験の安全性を説明してきたが、2010年に核実験の被曝による健康被害を認めて被害者に補償する法律を施行、しかし、2016年時点で、実際に被曝補償について申請のあった1000件に対して補償が認められたのは20件にとどまったとのこと。(Wikipedia)
私たちがタヒチを訪れた1974年当時、表向きそのような話は出なかったが、実際にはあの美しい紺碧の海はるか遠くの珊瑚礁で核実験が行われていたのであろう。1995年、NZのオークランドで「私たちは心で歌う目で歌う合唱団」がコンサートを行ったとき、合唱団の代表者である姥山寛代氏が、あいさつの中で、フランスやアメリカによって太平洋の島々で行われている核実験に反対すると述べたのはそのようなことであり、アオテア・センターで満場の聴衆が大きな拍手をしたことを思い出す。
核実験の話はさておき、私たちが訪れたタヒチを訪れたこの時の思い出を、海外教育事情視察団の報告書にある日誌には、この時の担当であったI氏が次のように書いている。

「“南海のエデン”あるいは“最後の楽園”を夢見て、夜半、雨のオークランドを発つ。朝5時、機上より朝焼けの空にひっそり静まり返るソシエテ諸島を見る。時間の経過と共に赤からオレンジと変化する空、珊瑚礁に囲まれた何か幻想的な感じのタヒチ島、期待に胸をふくらませ、空港に降りる。出迎えの長い黒髪、小麦色の肌、大きな瞳のワヒネ(女性)からハイビスカスを首に受け、一瞬戸惑う。ここタヒチ島はソシエテ諸島のほぼ中央に位置し、政治・経済から文化の中心である。ポリネシア系住民を中心にヨーロッパ人、アジア人が共に住んでいる。1042㎢の広がりを持つこの島は、狭い地峡でつながれた二つの火山から成り、ひょうたんの形をしている。深い谷に刻まれた険しい峰には海抜1000mを越えるものも多く、最高峰オロヘナ山は2322m(今は、多くの地図などに2241mと書いてある)にも達する。山も谷も豊かな濃い緑に覆われ、山裾には狭いながらも土壌肥沃な海岸低地が島の全周を取り巻く。かぐわしい香りを溢れさせたハイビスカス始め、鮮やかな熱帯の花々が咲き乱れる中に赤い屋根、白い壁の建物が見え隠れする。島を巡る樹木は熱帯の強烈な陽ざしのもとにエメラルド・グリーンに輝く海と珊瑚礁に映えて荒い外洋の波浪をさえぎっている。海はあくまでも澄み、大小色とりどりの熱帯魚が乱舞し、さながらお伽の国を思わせる。砂浜は熱く、海水は温かい。フランス領だけにフランスからの観光客が多く、老若男女、大胆な水着姿で太陽の光を満喫する者、歌を歌う者、それぞれ求めるものを楽しんでいる。」
ここでは、わりに大きなリゾートホテルに泊まった。広い砂浜からエメラルド・グリーンの海に面しており、現地の人たちがポリネシアン・ダンスで歓迎してくれた。ハワイのルアウショウのように野趣豊かな食事を楽しんだ。多くの観光客グループの中で男性が多い我がグループは少々異色であったかもしれない。国の派遣でビルマ(現ミャンマー)やオーストラリアの教育事情を視察し、ニュージーランドからここタヒチに至り、この後、ハワイを経て帰国する30日間の旅行であることを説明したところ、フランスやアメリカなど多くの国の旅行者から、「何ともうらやましい日本の先生ですね、とさすが金持ち日本」と冷やかされたことを思い出す。

マーケットをのぞくと野菜や果物、魚など現地で生産されるものの値段は安かったが、砂糖であるとかバターや食料品、衣類などフランスやヨーロッパ産の物の値段は高かった。現地で素朴な生活をするには生活費などは安かったと思うが、はるか遠くから輸入されるものを消費する生活であるとか、旅行者が求める快適なものや便利さに伴うものに要する費用はずいぶん高かったことを覚えている。(以下、次号)
《資料》
フランス領ポリネシア Wikipedia
《写真》 上から順に
UTAのDC-8型機 Key Aero資料より
フランス領ポリネシア議会(パペーテ) Wikipediaより
大型リゾートホテル : 周囲の環境にも配慮されている。1974年2月 筆者撮影
パペーテのホテルにてホッと一息する筆者 1974年2月
現地ではポリネシアン・ダンスで旅行客を歓迎 1974年2月 筆者撮影