2026.03.02
小野 鎭
一期一会 地球旅 402 初めての世界一周旅行添乗(2)
一期一会・地球旅 402
初めての世界一周旅行添乗(2)
地球旅400~401号は、訳あって国内旅行などを書いてきましたが、改めて、399号に続いて「初めての世界一周旅行添乗の思い出」を再開させていただきます。(筆者注)
1969年6月14日、ストックホルムからコペンハーゲン経由、オランダのアムステルダムへ飛んだ。ここでは病院見学はせずに花市場であるとか、干拓事業を見学したことが記憶に残っている。高校時代にオランダのゾイデル海と聞いていた海が実際には1932年に大堤防が造られてアイセル湖という名前に変わっており、干拓地(ポルダー)が造成されている様子を見たことが興味深かった。オランダの国づくりということではこの後、漁業、農業、医療、福祉など様々なテーマでこの国を訪れるたびに共通して聞き、見学するテーマであった。「地球は神様がおつくりになった。しかし、オランダはオランダ人が造った。」という文章がオランダの小学校の教科書に書かれているとはオランダに行くたびにガイドが説明してくれる象徴的な言葉である。
ところで、北欧からオランダへ来たとき一つ紹介しておきたいこぼれ話がある。北欧人やオランダ人は平均して日本人よりも大柄な人が多い。今日では、日本人も総体的に平均身長が高くなっていると思うし、私は電車の中で高校生などが集まって乗っているとその中では潜り込んでしまうような思いをすることがあるが、60年代はまだまだ小柄な人が多かった。そこで、トイレで苦労したことが思い出される。北欧やオランダなどでトイレでは背伸びして小の用を足した人が多いことを聞いている。女性用は知らないが、男性用では、一番下まで受け皿があるときは問題ないが、それが中間にあることも多く、その位置は日本のそれよりもかなり高いことがある。日本人が用を足すときはその受け皿に小を放出するためにはかなり頑張って背伸びしなければならないことになる。トイレに入って、ヒェーと声を上げるとか、かなり頑張って背伸びして用を足している様子がうかがえて、バスの中や食後にトイレでの苦労話を語っては苦笑しあう風景を見ることがよくあった。ついでに言うならば、大の方では、「考える人スタイル」になる。ところがこれも下肢の短い日本人は前かがみで足を着くことになるので「前かがみの考える人スタイル」になっていたと思う。時代と共に日本人の背丈も高くなり、今では、ヨーロッパのトイレでも苦労する人は少なくなってきていることだろう。そう思いつつ、念のため、Netでオランダの男子用トイレについて写真を開いてみたところ、今でも「背の高いオランダ人のトイレ」などが紹介されているので依然として苦労している人(?)もあるらしい。
トイレと言えば、近年、我が国のトイレづくりとその機能の素晴らしさは世界でもトップクラスと言われているらしい。日本の土産として、便器を買っていく外国人旅行者もあるとはよく聞く話。今日では温水シャワー付きトイレが多く、多目的トイレなども含めて公衆トイレにも設置されている。これらの話題は海外でも紹介されており、日本の公衆トイレを利用することを楽しみにしている外国人旅行者のことも聞いている。私は高校の同期生グループをこれまで欧州などに幾度も案内しているが、シャワー付きトイレが少ない国が多いのでこれには不満なメンバーもあり、予めヨーロッパのトイレ事情について説明することにしていた。
アムステルダムからロンドンへ飛んでいるがここで病院見学をしたかどうかは記憶にない。バッキンガム宮殿の衛兵交替は見ているので多分この時は、医療施設見学はしていないと思う。次いで、ドイツのフランクフルトへ飛び、大学都市古都ハイデルベルクを見学した。ドイツに医学を学びに行く医師や研究者もあったので、団員の先生方はドイツ医学ということについては大変興味深くとらえておられたのが印象的であった。ハイデルベルクの古城跡にはドイツ薬学博物館があり、薬剤の先生が何枚も写真を撮っておられたことが思い出される。
ドイツも敗戦国であるが、ヒットラー時代の置き土産(?)アウトバーンは戦後のドイツでは多分経済復興と振興の大きな役割を果たしてきたと思う。国家的事業として西ドイツ全土に網の目のように自動車専用道路が建設されていったことはよく聞いている。乗用車は制限速度無し、バスやトラックは80~100㎞/hであったと思う。ドイツではバス旅行をすることも多く、添乗員は、ドライバー席の後ろに座って、車窓風景や見学先の概要について事前に説明することも求められるようになり、勉強することが必要であった。心地よいバスの揺れでついつい睡魔に襲われてはハッとすることもあった。ドライバーの説明を聞き、質問することでドイツ語に少しずつ慣れていくようになっていったことも懐かしい。日本では、1964年に東名高速道路や首都高が部分的に使われ始め、次第に高速道路建設に力が入れられるようになっていた時代であった。この後、ミュンヘンで病院を見学したと思う。夜、大きなビヤホールに行ったが、飲むほどに酔うほどにドイツ語の達者な先生もおられ、ドイツの男たちから今度は日本とドイツで手を組み、イタリア抜きで世界を相手にしよう、等と物騒な話が出たのもこの時代であった。かつて従軍した経験のあるメンバーもおられたのでそんな勢いがあったのだろう。この後もミュンヘンはたびたび訪れて、市内と周辺地域で大小の病院を見学したことが印象に残っている。それ以外にも農業、福祉、建築そして観光でもバイエルン州を訪れているのでミュンヘンはドイツでも一番印象深い町として記憶に残っている。ノイシュヴァンシュテイン城は、たびたび訪れているが、天気に恵まれないことが多く、霧雨に煙るお城の写真が多いのが残念である。
次いでオーストリアのウィーンに行っている。ウィーン大学の関連病院を見学したと思うが、フロイドの精神医学やオーストリアでの眼科研究では世界的にも一番進んでいると聞いたことを覚えている。夜は、グリンツィンの酒場へナイトツアーで出かけ、白ワインを傾けながらミュージシャンがバイオリンやアコーデオンで奏でるウィンナワルツやロマ(ジプシー)のメロディを聞きながら、昼間の疲れで舟を漕ぐ先生たちがおられたことも懐かしい思い出。ウィーンからスイスのチューリヒへ飛び、空港から貸切バスでベルナーオーバーラントのインターラーケンへ行っている。初めてのヨーロッパへの添乗でチューリヒからミラノへバスで移動したことを思い出しながらバスの中でマイクを握った。ドライバーから周辺の町や村、山や湖の名前を聞きながら、案内書と地図をのぞき込みつつ、案内したことが思い出される。インターラーケンから登山電車でユングフラウヨッホまで上り、氷河とアルプスの桁違いの山の大きさと美しさに圧倒された。
チューリヒから空路ミラノへ飛び、乗り換えてベネチアへ飛んでいる。当時はヴェニスと呼んでいたと思うが、日本では、いつのころからかイタリア語のままベネチアと呼ぶようになっている。カタカナの「ベ」、本当は「ヴェ」の方がいいと思うが日本での約束事らしいので細かいことにはこだわらないことにしておこう。サンマルコ寺院の壮麗さとかつてのベネチアが都市国家として中世から近世まで圧倒的な経済力と権力を持っていたと聞いたが、よくわからなかった。その後、イタリアの歴史であるとかルネサンス、塩野七生さんの著書などを読むにつけ、この町の偉大さが分かってきた。今も伝統的に行われる仮面祭りなどを見るとこの町の人々の豊かさと自分たちのアイデンティティ(誇り)を守り抜いていることがよくわかる。
その後、水の都から永遠の都ローマへ飛んでいる。この3年前、初めてこの町を訪れているが2000年前の町の風景が至る所に残されており、石畳の街中を忙しく走り回 るフィアット500という小さな車のタクシーも懐かしかった。その十数年前に製作された映画「ローマの休日」に描かれた町の風景がまだまだたくさん残っていたと思う。あの映画を見るたびに自分も同じような風景を実際に見たような気がする。ここでは市内見学の前に、ローマ大学の附属病院を見学したが、建物は天井が高く、床は大理石であったことが印象的であった。夜は、古代ローマ時代の遺跡の中にあるレストランでナポリ民謡やオペラの一節を歌うテノール歌手の圧倒的な歌唱力にただただ驚いたものであった。(以下、次号)
《写真、上から順に》
・地図には、オランダの「ゾイデル海」とあった:1959年版 帝国書院発行の高等地図
・ドイツ・ノイシュヴァンシュテイン城:1969年6月 筆者撮影
・ベニス・サンマルコ広場:1969年6月 筆者撮影
・ローマ・サンタンジェロ城&後方がサン・ピエトロ大聖堂:1969年6月 筆者撮影