2026.03.09
小野 鎭
一期一会 地球旅 403 初めての世界一周旅行添乗(3)
一期一会・地球旅 403
初めての世界一周旅行添乗(3)
イタリアでは、それまでの通貨と違ってゼロが10倍くらい多く、頭の中が混乱しそうであった。当時、US$1.00=360円、イタリアリラ(Lit)は625くらいであった。町中には、Cambioという看板を掲げた両替商があったので旅行者小切手(T/C)を持参してはリラに交換した。コインは、500Lit. お札は、1.000、5.000、10.000Litなど一気にお金持ちになったような気分がしたが、出ていくお札も同じように出ていくので、結局は元の木阿弥。1993年、それまでのEC(欧州共同体)からEU(欧州連合)へと大きく変わり、間もなく通貨統合が行われてユーロが登場、徐々に各国では従来の通貨からこのEuroに替わるようになっていった。従って、国境を超えるごとの両替は必要なくなっていった。さらに今では、カードやスマホで食事代を払うとか、買い物ができるようになってきたので以前よりさらに両替の手間がなくなってきた。
しかし、私が世界中を飛び回っていた60年代後半から90年代までは、出入国検査を受けて外に出ると両替が次の仕事であった。日本から出発するにあたっては米ドルの現金と旅行者小切手(=Travelers Check=通称T/C)を持参して、目的地に着いたら一定額を現地通貨に両替してこれで小物の買い物を済ませ、大口の買い物などはT/Cで払う人も多かった。因みに、当時はまだ固定相場制でUS$1.00=¥360であった。予め外貨の購入許可を取得して銀行での購入額が旅券の末尾に記録されており、出国時に確認されることがあった。この時、私はT/CでUS$1,000とCash$40を購入し、日本円は2万円を持ち出したと記録されている。(写真掲示)
この旅行では、デンマーク(デンマーク・クローネ=DKr)、スウェーデン(スウェーデン・クローネ=SKr)、オランダ(ギルダー=Dfl)、英国(英ポンド=UK£)、西ドイツ(ドイツ・マルク=DM)、オーストリア(シリング=öS)、スイス(スイス・フラン=CHF)、イタリア(イタリア・リラ=Lit)、スペイン(ペセタ=Pts)、フランス(フランス・フラン=FRF)10か国の通貨に両替したことになる。両替すると、その都度、手数料も引かれるのでできるだけその国の通貨はその国で使い終え、残ったコインは絵葉書やたばこを買ったり、コーヒーを飲んだりしてうまく処理するのが旅のヒントでもあった。私の場合、現地で使い残したコインは、次の旅行でまた使えるから、と持ち帰って 机の引き出しに入れていた。次第に欧州旅行をする機会も減ってきているうちにユーロに替わっていった。それまでのコインは使えなくなり、当時のコインや郵便切手、いくつかの国のお札などはそのまま机の引き出しで死蔵されて今に至っている。
1999年に通貨統合が始まり、2000年代に入ると次第に多くの国がユーロを導入していった。国境超えごとの両替はそれほど必要なくなっていったが、スイスやスウェーデン、英国などは今もそのまま使われている。特にスイス・フランは自分の生まれた年のコインを持ち続けている人もある。私も偶然、自分の生まれた年ではないが、1950年と印字された2フラン硬貨を持っていたがいつのまにか行方不明となり、ちょっと残念。
ローマからスペインのマドリッドへ飛んだ。空から見るイベリア半島は茶色一色だった。実際に町を歩いてみると、それまでのヨーロッパ各国とは新たな文化の違いであった。町の雰囲気は大通りではそれほど違和感はなかったが、巨大で豪華な王宮や大学都市などにはそれまでのヨーロッパの首都などで見た風景とは違って広大な造りに見えた。スペイン広場には、ドン・キホーテと従者サンチョ・パンサ、作家セルヴァンテスの像があり、スペインに来たのだ、と妙に納得したことが思い出される。プラド美術館にも入館していると思うが具体的な記憶はない。観光より、生活時間帯ということでイタリアと共に地中海沿岸ではそれまでのアルプスよりも北の国々とはかなり違っていることを強烈に感じた。ローマでは、昼頃から夕方16時頃まで昼休みで商店なども閉まっており、その時間は、昼食をした後、サンピエトロ大聖堂などを訪れるとかカフェでひと休みするなどで時間を過ごした。旅行者相手の土産物店などは、ドアを小さく開けて、そっと観光客を入れているところもあった。
マドリッドのホテルで夕食の時間を確かめたところ、21時と言われて驚いた。お昼ごろから夕方5時ごろまではシエスタということで昼休み、会社員も店員も自宅に帰って昼食を摂り、昼寝をして夕方またオフィスやお店に出勤してくるという。ラッシュアワーは朝と昼、夕方の三回あるらしい。忙しい日本の観光客は昼間の観光、夕方は買い物、そして、遅い(スペイン人にとっては遅くはないが)夕食をやっといただける。その後、ナイトツアーとして、タブラオ(フラメンコをやっているライブレストラン)に出かけると酣(たけなわ)は午前様。ギターとパリージョ(カスタネット)やパルマ(手拍子)と哀愁を帯びた歌、そしてダンサーが床を叩くリズムは相当な音であるが、ワインのグラスを傾け、昼間の観光で疲れた先生方は睡魔に襲われて首(こうべ)を垂れている人もたくさんあった。その町で過ごすにはそれなりの時間の使い方があるのだなということを感じたが忙しい旅行ではそれはなかなかむつかしいことであった。
パリでは、1班のグループと同じアンバサダーホテルに宿泊、4つ星クラスでオペラ座にも近くオスマン通りに面していた。クラシックな造りでそれ以前に来たときはいずれも3つ星のホテルであったのでそれに比べるとさすがに高級感を覚える佇まい(たたずまい)であり、ちょっといい気分であった。ウィーン以来、久しぶりの同宿で、先輩社員と再会。日本を発って3週間近く経っていたのでそれまでの添乗業務で苦労したことや失敗、嬉しかったこと、よくわからないことなどについて話した。よく頑張ってきたなあ、と褒められたり、それは「こうやるといいのでは」、と助言されたりした。全体としてはほとんど間違っていなかったと思い、安心した。しかし、病院見学中の添乗員の役割として自分が心がけていたことについては、自分の方がより熱心に臨んでいるように感じ、これからもしっかりやって行こうと意識を強くした。
パリは3回目であったので、街の様子やレストラン、カフェ、日本人客が行きそうな免税店などメンバーをうまく案内する要領も少しずつ自分のものにすることができるようになりつつあるような気がした。サンジェルマン地区を走ると歩道の石畳が修復されており、少しずつ町の様子が元に戻っていることを感じたが、これについては後日、改めて書くことにしたい。
ところでこの時、泊まったこのホテルには、その後も時々宿泊しているのでいわば馴染みのホテルであったと言ってもいいかもしれない。フロントスタッフは顔を覚えていてくれており、挨拶もよく交わすことが多かった。ホテルはオスマン通りに面しており、通り側の部屋からはオペラ座に近い風景も見えており、今考えるとずいぶん贅沢なホテルに泊まっていたことになる。ところが、表通りの部屋に宿泊されているお客様からはクルマの音がうるさいとクレームを言われることもある。むしろ、内庭に面した部屋の方が静かで喜ばれることもあり、複雑な思いであった。実のところ、表通りに面した部屋の方が眺めも良く、部屋代はこちらの方が高かったのであるがグループの場合、それはお構いなしであった。今も、このホテルは、Marriott系の高級ホテルとして紹介されている。宿泊料金はかなりの金額であろう。
こうして、3週間のヨーロッパ滞在を終え、パリのオルリー空港からいよいよニューヨークへ向かうことになった。空港には折しも日航機が2機駐機していた。1機はアンカレッジ経由の羽田行。もう1機は私たちが乗ってこれからニューヨークへ向かうDC-8型機であった。ヨーロッパをまわってきた自分はいささか疲労気味であり、先生方は勿論、私もあのJAL機に乗れば明日は日本へ帰れるのに、と少しホームシックを感じた。(以下、次号)
《写真、上から順に》
・旅券に書き込まれた外貨購入額と日本円の持ち出し承認イン(筆者の当時の旅券)
・死蔵されているヨーロッパ通貨のコインや郵便切手。
・ドン・キホーテと従者サンチョ・パンサ、後方はセルヴァンテス像:Espana資料より
・パリ・マリオット・アンバサドール・ホテル:British Airways 資料より。