2025.07.28
小野 鎭
一期一会 地球旅 372 ドイツ&スイスの思い出(12) ボンから憧れのスイスへ

一期一会・地球旅 372
ドイツ&スイスの思い出(12) ボンから憧れのスイスへ
翌日、ボンを発ってスイスのエンゲルベルクへ向かった。2台の大型バスはアウトバーンを快調に走った。大型車は、制限速度があるが、中型乗用車などはほとんど制限速度は無いらしく、ビュンビュン追い抜いていくし、対向車線ではあっという間に通り過ぎていく。ドイツ経済の力強さを見せつけられているようだった。車窓からはドイツ西部から南部にかけて緑野や森、町や小さな集落が遠望された。ライン渓谷の山地を過ぎるとどこまでも平地が広がっており、日本のようにトンネルはほとんどなかった。揺れも少なく、前日のコンサートと交流会での夜更かしと旅の疲れであろうか、車中ではシートにもたれて眠っている人が多かった。途中のサービスエリアで昼食と休憩、再び南下してやがてスイスに入り、バーゼル付近からは美しい丘陵地や牧場、農家風の建物や平たく箱型の建物は倉庫や工場であろうか。ルツェルンの湖畔で小休止、やがて雪をかぶった山々を抱く谷間を縫って次第に高度が上がり、エンゲルベルク(海抜1000m)に着いた。この日の走行距離は、630km、ボンを発って10時間余り、今では、これだけの長距離を一日で走ることなどは許されないだろう。

エンゲルベルク、緑の谷間には牧場が広がり、家々の窓辺にはゼラニウムの花かごが掛けてあり、庭先には花々が咲き乱れていた。見上げると奇妙な形の峰がそびえている。何やらマントをかぶった僧のようにも見える山、この村が修道院を起源として生まれてきた所以でもあるのだろうか。さらにその奥には白雪を抱く山々が青空にまぶしく映えている。その中の峰の一つがティトゥリス山らしい。Klein Titlisの山頂駅までは登山電車とロープウェイがかかっており、途中からはロッテールという丸いゴンドラに乗る。ゴンドラの内部は床が360度回転するので乗客は窓辺の手すりにつかまって立っていると動かずして外の雄大な景色を眺めることができる。中央スイスの3,000m前後の山並みが続き、眼下には氷河と森林、緑の谷間と家々が点在している。やがて、3020mの頂上駅に到着する。登山電車のドア幅が狭く、車いすがうまく乗りにくいので、普段は頂上まで食料品や飲み物や資材運搬用の四角の大きな箱に車いすのメンバーやスタッフと家族などが2~3組ずつ乗って上下した。ロッテールでは、車いすの人たちも回転展望を楽しむことができた。全員が頂上駅に着き、外へ出ると一面の銀世界。足元に注意して雪のテラスまでは手をつないだり、車いすの前後を慎重に支えて歩き、全員そろって真っ白の山並みをバックに記念写真に納まった。障がいのある人もいつの日かお連れしたいとかねがね願っていた夢がや っと叶ったと思ったとき、思わず眼がしらが熱くなったことを覚えている。

翌日は、フィアヴァルトシュテッテ湖(通称ルツェルン湖)を遊覧船で湖上遊覧、湖面をすべるように快走する船の上で美しい風景を楽しみながら、歌を歌ったり、カフェでお茶を楽しんだり、みんなの笑顔が一層明るかった。ボンでのコンサートが終わり、重責から解放された姥山さんは船の上で心からリラックスされている様子がうかがえた。

最終日の夜、夕食会は民族ショー、ヨーデル、アルペンホルンなどを聴き、みんなで輪になって踊ったり、歌ったり、心ゆくまで楽しんだ。“ボンに響け、歓喜の歌、そして憧れのスイスへ”は素晴らしい思い出をいっぱいに作って、幕を閉じた。

《後日譚》
ボンでのコンサートを開くにあたってお世話になったDr. Tom Muttersにはその後も、アジア会議でその年9月、韓国のソウル、そして95年にスリランカのコロンボでもお会いした。ボンのコンサートでは、会場入り口に置いた箱に入れられていた寄付金は、レーベンスヒルフェ本部を通じて、東ドイツの障害者福祉向上の一助に加えられたとお聞きした。それ以降は、私がアジア会議などから遠ざかったこともあり、氏とお会いすることはなかった。今回、この項を書くにあたり、改めて氏のことを調べてみたところ、氏は私が承知していた以上に大きな存在であったことを知った。
Dr. Tom Muttersはオランダで1917年に生まれ、オランダで小学校教員、市議会勤務、第2次大戦後、国連難民高等弁務官としてドイツのヘッセン州ゴッデラウで知的障害のある子どもたちの窮状を目の当たりにして、何とかして救わなければ、という思いに駆られたとのこと。彼はこう語っている。「子どもたちの無力感と見捨てられた境遇を通して、私は人生の真の意味、すなわち隣人に頼ることの真の意味を理解することができました。」 このことが氏を知的障害者福祉の道に進ませたのであろう。

氏は、知的障害者への福祉を行うために、1958年にマールブルクに「知的障害児のための連邦レーベンスヒルフェ協会」 Bundesvereinigung Lebenshilfe für das geistig behinderte Kind e. V. ( Bundesvereinigung Lebenshilfe e. V. =現:連邦レーベンスヒルフェ協会e.V)を設立、爾来30年間にわたり、その会長を務めてきた。1950年代から障がい者のインクルージョンを訴えてきた彼のビジョンは、今日、国連障害者権利条約に反映されている。氏は、その生涯にわたる功績により数々の賞を受賞されており、代表的なところでは、1987年、70歳の誕生日にドイツ連邦共和国功労大十字勲章を受章されている。私が、氏を知ったのは、まさに氏がレーベンスヒルフェの会長として活躍し、1988年からは名誉会長として引き続き活動しておられたころである。その中で、私が、「第九のコンサートを開くための協力をしていただけませんか?」とお願いしていたことになる。2016年に99歳で没されたとのこと。
氏の逝去を悼んで、インクルージョン・ヨーロッパ(Inclusion Europe)では、「創設メンバーの一人であるトム・ムッタース氏の逝去を悼みます。」として哀悼の意を表している。
もう一つ、氏について、特筆したいことがある。マールブルク市では、氏の没後翌年の2017年、レーベンスヒルフェ本部のある通りをトム・ムッタース通りに改名している。さらにドイツのいくつかの町でも従来からある通りを彼の名前に改名している。大きな功績を挙げた人の名前を冠した公園や通りが世界各地にあり、歴史上の人物としてその人の名前やその功績については知っている。しかし、自分が直接に関わった人物の名前が冠されていることは光栄であり、その人から賜った親交を本当に有難いと感謝している。遥かな日本から氏のご冥福をお祈りしたい。

ボンでのコンサートで忘れられない人として、もう一人は勿論、指揮者トノ・ヴィッシング氏である。当時、30歳前後であったと思うので今は50代前半であろうか。彼について調べてみたところ、今も音楽家として活躍しておられ、ポップ&ジャズの合唱団Bonn Voiceの指揮者として活動されているとある。2019年、スウェーデンのヨーテボリで行われたユーロビジョン・ソング・コンテスト(Eurovision Song Contest)があり、欧州放送連合(EBU)に加盟する放送局が主催している毎年恒例の国際的な音楽イベントにドイツ代表として出演したと紹介されている。ボンで指揮をされたとき、専門は声楽らしかったがやはり今もその道の指導者として活躍しているのだろう。(“ベートヴェンの生誕地にて”の項は終わり)
《資料》
・Dr. Tom Mutters : Lebenshilfe e.V. , Inclusion Europe, Wikipedia より
・Tono Wissing : Bonn Voice, Eurovision Choir 2019
《写真、上から順に》
・いつもはジュースや食べ物を運ぶ台車に車いすが陣取る。今日はジュースになってアルプスへ行きます。冗談と怖さが行ったり来たり(ケーブルカーにて):
ボンに響け、歓喜の歌、そして憧れのスイスへ 記念誌より
・神々の峰近く雲の中にいる。この雲の上にみんなを連れてきたかったと小野さんの目に涙 (ティトゥリス山頂駅 展望台にて 3020m) : 同上
・さあ、皆さん、玉手箱をあけます。楽しい旅の始まり はじまり(姥山代表:遊覧船上
にて) : 同上
・最後の夜、スイスショーで名残を惜しむ。思い切りフロイデ!を合唱、エンゲルベルクの夜は更けていく : 同上
・Dr. Tom Mutters : Inclusion Europe 資料より
・Tono Wissing : Bonn Voice 資料より