2025.09.08
小野 鎭
一期一会 地球旅 378 ドイツの思い出(18) ハイデルベルクにて(1)

一期一会・地球旅 378
ドイツの思い出(18) ハイデルベルクにて(1)

ハイデルベルクは、フランクフルトの南方90kmくらいのところにあるが、ヘッセン州ではなく、バーデン・ヴュルテンベルクという長い名前の州の北西部にあり、ライン川とネッカー川の合流点近くに位置している。ドイツ最古のループレヒト・カールス大学(現ハイデルベルク大学)やネッカー川を見下ろす高台には城跡、旧市街一帯の赤い屋根の建物群、町の中心部にある聖霊教会などはさながら一幅の絵画を想わせる美しい風景である。町の人口は16~7万のいわば地方都市のひとつであるがたびたび訪れている。この町のことを聞くとか、写真を見たりすると幾度か得難い経験をした遥かな昔が懐かしく蘇ってくる。
その一つが初めてのヨーロッパへの添乗、1966年晩秋、ロンドンからドーヴァー海峡を渡り、3台の大型バスでベルギーのオステンドからブリュッセル、そしてドイツのケルンを経てこの町に降り立った。日本よりはるかに緯度も高く、アウトバーンを降りてこの町に入ってきたときはすっかり暗くなっていた。145人という大型の団体であって、ここでは何と6つのホテルに分かれて宿泊。この旅行は全行程25日間で14都市に寄ったがその内、7~8ヶ所の町でいくつかのホテルに分宿したが、6か所というのはこの町だけであった。大きなグループであって、値段のこともあったのかもしれないがほとんど中~上級クラスのホテルでそれほど大きなところはなかった。会社とランドオペレーター間で打ち合わせられた結果であり、理由はともかく、毎回、決められたホテルとそこに割り振られた少人数グループの宿泊と到着出発をスムーズに行うために駆け出しの添乗員は必死で動き回った。

出発ごとにその日のホテル数と少人数グループの編成と部屋割り、荷物の積み込みなど煩雑な準備がある。お客さまにもホテル数に合わせてバスに乗っていただき、荷物もそのバスに積み込むことが必須。旅行が始まって3番目の町、ケルン辺りから少しずつスムーズに動き始めたような気がする。ドイツ製の大型バス3台であったが、添乗員は4人、そのうち一人がチーフ、3人が各一台を受けもち、チーフは3台を毎日交互に乗って若手を激励し、指導してくれた。私だけが初めてのヨーロッパへの添乗で他の社員はそれなりの経験がある。チェックインと言い、お客さまとの接し方や問題が起きたときの処理の仕方はとても格好よく見えた。この時は、添乗員(Tour Conductor 以下T/Cと略記)のほかに、スルーエスコート(Through Escort 以下、T/Eと略記)ということで3人のスイス人の案内者が各バスに一人ずつ付いていた。ドライバー(いずれもドイツ人またはドイツ語)とのやり取りや旅行先各地で現地ガイドやレストラン、ホテル等での調整などを担当していた。彼らはいずれも独仏英語はもとより、イタリア語やスペイン語、その他の言語を含めて彼ら3人で多分10か国語くらいは解していたのではないだろうか。T/Cとのやり取りは専ら英語、私はこの機会にドイツ語会話も少しは覚えたいと出来るだけドライバーとのやり取りも耳を澄ますようにしていた。

この朝、ケルンを出発するとき、今夜は6か所のホテルに分宿となるので指定されたバスに乗っていただき、荷物も併せてバスのトランク横に持参してくださいとお客さまには案内した。今夜は6か所でT/C4人が4つのホテルを担当し、残り2か所にはT/Eがそれぞれ宿泊するが英語でのやり取りになるので予めお客さまにはご了承いただきたいとお願いをしてあった。この夜、ハイデルベルクのホテルでは、小野ともう一人のT/Eが宿泊することになった。ヨーロッパは初めてという小野のために社からチーフT/Cに指示が出されていたらしい。ここで私が受け持ったのは比較的高年齢のお客様男女40数名であったがほとんどが初めての海外旅行、またはヨーロッパは初めてという方々であった。私はと言えば、この年、1月と10月に香港・台湾などに2回の添乗、そしてこれが3回目の海外、ヨーロッパは初めてであった。最初のホテルで半分近くのお客様ともう一人のT/Cが下車、残りはいよいよ私が受け持つグループ。そしてT/E一人と私であった。うまく責任を果たさなければと、いっそう緊張したような気がする。

ホテルはハイデルベルクの市街を抜けてネッカー川沿いに少し走ったところにあり、低い木立に囲まれた緑地の脇に2~3階建てくらいの建物であった。バスから降りると一気に寒さを覚えた。11月も下旬とあって、日本(東京)での冬よりさらに寒さを感じたと思う。広い庭には淡い街灯がともり、僅かに暖かさが感じられてありがたく思えた。お客さまには全員ロビーに入っていただき、チェックインもなんとか無事に終わり、ルームキーとルームカードをお客様にお渡しした。ただし、お客さまにはそのままホテルのレストランに入っていただくことになった。時間は覚えていないが多分19時をはるかに過ぎていたと思う。お客様が着席される間にレストランのマネジャーに夕食のメニューについて確認した。T/Eに手伝ってもらい、スープに続いて、豚肉を蒸した料理で酢漬けのキャベツが添えられていることは分かった。デザートは何であったか覚えていないがアイスであったかもしれない。
T/Cには、もう一つ、大事な仕事があった。お客様個々のご希望での飲み物の注文である。旅行代金には食事時の飲み物代は含まれておらず、お客様は食事中に現金で直接払っていただくことになっている。旅行が始まって一週間ほど過ぎており、お客様はそれぞれ要領をつかんでおられた。大半はビールであったが、ワインの白と赤、リンゴジュースなどもあり、それぞれの値段を聞いて、皆さんに伝えることが大事な仕事。食事中にお客様にはドイツ・マルクを準備いただき、食後にウェイター/ウェイトレスが各テーブルをまわって集金する。お客様が食事を召し上がっていただいている間にロビーに戻り、ポーターがスーツケースに書いた部屋番号を再確認して各部屋に届けてもらった。T/Eが各部屋にはバストイレ付であることをフロントで確認してくれていたので、荷物が各部屋に届けてあれば、お客様が部屋に入られると問題は起きないはずであった。

レストランに戻ってみると、飲み物の支払いで混乱しているテーブルがあった。ドイツ・マルクのコインが分からず、米ドルの現金で払うという人がいることもある。この時代はまだ通貨は国ごとに違っており、英ポンドに始まって、ベルギー・フラン、ドイツ・マルク、この後はスイス・フラン、イタリア・リラ、最後はフランス・フランと続く。お客様は、日本からは米ドルの現金や旅行者小切手を準備して出発することが一般的で入国するたびにその国の通貨に両替する。空港であれば空港内に両替があるが、バスでの移動の場合は、国境の税関で長時間両替のために停車することはできない。途中のドライブインや到着後、ホテルのカウンターで両替してもらうことが多かった。使い残したコインは隣の国では替えてもらえないのでタバコや絵葉書を買うなどしてこれを使い果たすことが多かった。私はと言えば、残ったコインはまたヨーロッパに来たとき使えるのでそのまま持ち帰ることが多かった。いつしか、机の引き出しにはいろいろな国のコインが溜まってきたが次に出かけるときにまた持って出ることにしていた。やがてEU(欧州連合)が成立し、90年代になると通貨統合が行われ、ユーロの時代へと移っていった。多くのコインはそのまま机の引き出しで死蔵され、今に至っている。旅行先からお客様に絵葉書を書くことも多かったので切手もたくさん買って使っていたがこれもそのまま眠っている。
通貨のことを長々と書いてきたが、食事時の飲み物代などについて手伝うことも添乗員の大切な仕事であった。食事が終わり、お客さまには翌日の予定を伝えて解散し、それぞれのお部屋へ入っていただいた。ホテルは2~3階建てであったのでエレベーターらしきものは業務用のみであったと思う。お客様が部屋に入られ、私とT/Eは翌日の打ち合わせをしながらしばらくロビーで待機していたがお客さまからは連絡は無かった。どうやら問題は起きていなかったらしい。ホッと一息ついたのはホテルに到着して多分2時間くらい過ぎたころであっただろう。(以下、次号)
《写真、上から順に》
・晩秋のハイデルベルク遠望:Entouriste資料より
・ドイツ・セトラ社の大型バス(1960年代の例):Koesbohrer SETRA Oldtimerより
・香港からマカオへの日帰り旅行の船上にて:初めての海外添乗 1966年1月
・ネッカー川とハイデルベルクを望む:GPS My Cityより
・ユーロ以前のヨーロッパの貨幣とドイツの切手&長年愛用したコイン入れ