2026.02.02 小野 鎭
一期一会 地球旅 398 大阿蘇から久住への旅(9)
 一期一会・地球旅 398 
大阿蘇から久住への旅(9) 

大阿蘇・久住の旅 3日目、最終日も久住高原は濃霧に覆われ、加えて小雨が降り、肌寒さを覚える朝だった。ホテルのパンフレットには久住高原とその背後に久住山と稲星山が美しい姿を見せているがその雄姿はこの朝は残念ながら仰ぐことができなかった。高校時代の山歩きで久住山には登っているがあの時は夏休み、山の中にいる間カンカン照りで背中はザックの重みでヒリヒリしながら歩いたことが思い出された。今回はそれとは打って変わって、昨日来、濃霧に覆われて高原の絶景の眺望が叶わず、残念であった。しかし、リゾートホテルでの豪華な食事と温泉を楽しむことができ、素晴らしい思い出を作ることができた。いつの日か機会を作ってぜひとも晴れた空の下で久住高原や九重・夢の大吊橋などをもう一度訪れたいもの。 

さて、帰路は、次妹夫婦が熊本県の山鹿市に立ち寄っていくという。肥後の赤牛は熊本名産として知られているが、馬刺しも有名。山鹿市内には馬肉専門店があり、妹の親友に土産として買っていくとのこと。そこで、私も一つ希望を申し出てあった。私の場合は、お土産を買うことではなく、長い間ご交誼をいただいてきたかつてのお客様へご挨拶に立ち寄りたいというのが願いであった。実は、はるかな昔、具体的には、1969年、私にとっては初の世界一周視察団の添乗であった海外諸国医療事情視察団に熊本県の医師I氏が参加しておられた。1964年4月1日に海外旅行が自由化され、同じ日に私も旅行会社に入社、海外旅行の申し子と言えば大げさすぎるがそれから今日まで60年以上にわたって何らかのかたちで海外旅行に関わる仕事をしてきたことを個人的には、誇らしく思っている。この年10月には東京オリンピック開催、東海道新幹線の営業運転開始など戦後19年が過ぎて、戦後の復興から高度経済成長が始まって日本国内では様々な形で右肩上がりという言葉が使われていた。それから5年後、社団法人全国自治体病院協議会の主催であるこの医療事情視察団には全国の公立病院の院長始め医師、事務長など管理関係、地方の医療行政関係者など61名の参加があり、その内のお一人がI氏であった。当時は、熊本県山鹿市にある公立病院の医師であったとのこと。
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私としては、香港、タイなどの近隣アジア諸国に4回、欧州2回に次ぐ7回目の海外添乗であったが、33日間、初めての世界一周ということで半世紀以上過ぎたがあの時の興奮と経験は今でも忘れない。この時の携行日程表は紛失しているので視察した病院などはほとんど覚えていないが、添乗記録は残っており、欧州3週間、米国10日間であったことが分かる。団は大きく2班に分かれて、1班は先輩社員が担当、もう1班が私であった。とは言いながら、欧州内で数か所、アメリカでも数か所同じ都市で合流したが、ホテルは分かれていることが多かった。それ以外は班ごとに滞在日をずらして回ったので動きそのものは独立していたと言っていいだろう。先輩社員が私の様子を見ながら指導し、助言することで初めての世界一周を完遂させようという社の配慮であったと思う。 
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パリのオルリー空港からJAL001便でニューヨークへ向かったが3週間ぶりに日本の航空機でしかも大西洋を渡ることで安らぎを覚える一方、興奮した。この時代、日本航空がロンドンかパリとニューヨークを経由する世界一周便を運航していたことは、JALとしての意気と誇りでもあったのだろう。各地では、病院見学等があり、まだ英会話も不十分であったが、専門視察中の添乗員としての役割を学ぶことに努めたことが思い出される。医療用語も少しずつ覚え、先生方からもその意味などについてうかがうことが楽しかった。食事時や市内見学、フリータイムなどでは積極的に街歩きをするとか、先生方を案内しては街角のカフェで一休みするとか、絵葉書や土産物を買ったり、一方では各地の写真を撮るのに勤しんでいただけるように努めた。私の母が熊本県玉名郡賢木村の出であると話したところ、I先生は、さらに親近感を示されていつも楽しい時を過ごさせていただいた。団員は、役職上からも年齢層が少し高かったが、I先生はまだ30代後半で多分団員の中でも最年少くらいの若手であったし、私も28歳であり、話しやすかったのかもしれない。 

33日間の長い海外視察からの帰国後、私はお一人ずつ全部の先生方にお礼の手紙を書き、加えて、個人的にも年賀状を書いた。I先生は、丁寧に返信して下さり、それからは毎年年賀状を交換するようになり、加えてI先生に、かつて訪れた懐かしい町などの絵葉書を航空便で送ったりした。そんなことでさらに喜んで下さったのかもしれない。その後もずっと年賀状の交換は続いた。先生のお名前には山鹿市内の産婦人科医院院長と書かれてあった。私がお供した海外視察から帰られたのち、ご自分の医院を開設されていたのであろう。そして、2000年代に入ったある年、I先生から電話があり、たまたま上京中であり、一緒に夕食でもどう?とお誘いを受けた。新宿の京王プラザホテルにお泊りとのこと。私は、1999年に社の自主閉鎖を余儀なくされていたこともあり、当時は経済的にも厳しい日々を過ごしていた。高級ホテルでの食事代を考えると少々二の足を踏みそうな気分であったが、長年のご交誼を賜っていたI先生のお誘いをお断りすることができず、お招きをお受けした。ホテルの最上階、和食のカウンターであの時の海外視察を懐かしみ、今の活動などについても話して下さった。頂戴した名刺には先生が地域の医師会の会長でもあることも付されていた。久しぶりにI先生の熊本弁でのお話には一層親しみがこもっており、お食事をご馳走になった。これまでの誼(よしみ)を本当に感謝し、「これからもご健康でご活躍ください、そしてこれからもよろしくお願いします。」とご挨拶して辞した。 

それから数年後、I先生の病院から電話があり、「長年のご交誼有難う、年賀状は今年で終わりにさせていただきたい」とご挨拶をいただいた。現職を退かれたかどうかはお聞きしなかったが40年以上のご厚誼に感謝して、それからはニュースなどで山鹿市での出来事などを聞くとI先生はお元気だろうか?と懐かしく思ってきた。 
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今回、山鹿に立ち寄るということで調べたところ、I先生の産婦人科医院は今もあることがわかり、アポはしていないがせめて医院に伺ってご挨拶をしたい、とお邪魔した。折しも昼休み中であったが、事務室には男性の医師らしい方がおられた。私は、突然、予約無しでお訪ねしたことをお詫びしながら、この日、お訪ねしたことについて説明し、はるか昔のI先生との出会いとそれからの長いご厚誼について感謝していることを伝えた。そして、I先生がおられればご挨拶させていただきたい、とお願いをした。偶然にもお相手下さった方は、I先生のご子息であり医学博士。そして、現在、この医院の院長であった。I先生は、約10年前にご他界されていたとのことであったが、私の願いにはご理解を示して下さった。 

これまでに230回の海外添乗で延べ数千人のお客様に接してきたが、こうして何十年も年賀状を交換していただき、ご厚誼を賜ってきたことを誇らしく思うし、そのご厚誼を感謝している。私にとって、初めての世界一周視察旅行の添乗中、I先生が熊本弁で元気よく話しながら私の疲れをねぎらって下さったことを改めて思い出す。I先生のご冥福をお祈りしつつ・・・ 合掌 

《写真、上から順に》 
・海外諸国医療事情視察団の添乗中、アムステルダムにて(再掲):1969年6月撮影 
・日本航空 世界一周便のDC-8型機、パリのオルリー空港にて:Wikipediaより 
・I産婦人科医院:Kamoto Medical Association 資料より