2026.08.24 小野 鎭
一期一会 地球旅 427 ドイツからオーストリアへの思い出、ミュンヘンからウィーンへ(9) またまたウィーンにて2
一期一会・地球旅 427 
ドイツからオーストリアへの思い出、ミュンヘンからウィーンへ(9) 
またまたウィーンにて②
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3日目は先ず、中央墓地(Zentralfriedhof)へ出かけた。もちろん、息子の提案でというか、注文、否、推薦で音楽家たちが眠る墓地に詣でることであった。これまでにもベートーヴェン、シューベルトやシュトラウスなど著名な音楽家たちが中央墓地に眠っていることは聞いていたが実際に行ったことはなかったので興味津々であった。この墓地は、中心街から南東方面にあり、タクシーで20分くらい走ったところに広大な敷地が広がっていた。 資料を見ると2.5㎢とあるのであらかじめ行きたいところをドライバーに伝えておかないと墓地内に入ってかなり歩くことになるとあり、楽聖たちが眠る区画32Aを指定して中央入り口から歩いて行った。それでもかなりの距離を歩いたような気がするがそれも仕方があるまい。
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区画32Aには、ベートーヴェン、シューベルト、シュトラウス父子、ブラームス、スッペ、ヨーゼフ・ラーナーなどの墓があった。スッペと聞くと、高校時代は吹奏楽部に属していて、ホルンを吹いていたので「軽騎兵序曲」ではソロの部分になると緊張したことが思い出された。シュトラウスにもずいぶん親しみを覚えてきたが、何といってもベートーヴェンは自分にとっては大切な存在。1989年に「私たちは心で歌う目で歌う合唱団」に加わり、「An die Freude=歓喜の歌」は何度、歌ってきただろう、そして、第九コンサート開催のため事務局として、国内はもとより、海外でもベートーヴェンの生まれ故郷であるドイツのボン、ニュージーランド、そして、ニューヨークはカーネギーホールや国連、さらに韓国はソウルなど。コンサート開催のため、現地折衝など全般的に苦労してきたし、時には「生きがい」を覚えた、そんな記憶もある。ベートーヴェンの墓碑を前にして、多くのことが脳裏を去来し胸が熱くなった。 

中央墓地は、1874年にウィーン市の都市計画の一環として建設されたそうであるが、設立の際に掲げられた理念は、「どの故人も国籍、宗教に関わらず、ここに埋葬する」ということであり、多様な宗教に縁(ゆかり)の施設が墓地内にあった。公園墓地として、市民の憩いの場ともなっており、特に「名誉墓地地区」には、国際的に著名な音楽家、芸術家、政治家の墓があり、観光スポットともなっているという。
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中央墓地から都心へ戻り、地下鉄カールス広場駅 (Karlsplatz)で下車。この駅は、建築家オットー・ワーグナーの設計になる大理石に美しい縁取りでも知られており、ユーゲント・シュッティール(アールヌボー=Art Nouveau=19世紀から20世紀初頭にかけてヨーロッパを中心に流行した国際的な芸術運動)の建築部門でよく知られている。
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ウィーンの町の美化ということについて、山之内克子著の「ハプスブルクの文化革命」には、「ウィーンの町は、18世紀半ばごろから『都市の美化』という用語が盛んに用いられるようになり、個々の建物だけでなく、都市全体の美しさが評価されるようになってきた。18世紀末になると首都と郊外都市を結ぶ主要道路や稜堡(要塞の城壁)に新たに植樹を施し、並木が整備されていった。1765年以降、首都の住民は他のヨーロッパの主要都市に見られないほどの大規模な公共緑地が提供されるようになった。例を挙げれば、ヨーゼフ2世(1765~1790)の時代、かつては、ハプスブルク家の狩りの場であった『プラーター緑地は年間を通じて、また時刻を問わず、徒歩、騎馬、もしくは馬車にて自由に散策することを万人に対して許可するものである。(ヨーゼフ2世の日誌より)』」などが紹介されている。 
それから1世紀の後、ウィーン中心部のリングシュトラーセ(環状道路)建設について、江村洋の著「フランツ・ヨーゼフ ハプスブルク「最後の皇帝」には、次のような紹介がある。「フランツ・ヨーゼフ皇帝の時代、ウィーンの城壁を撤去し、その跡地に広壮なリングシュトラーセ(環状道路)を新設する計画が署名され た。その計画に従って、1865年には、幅57m、長さ4kmという長大な道路が完成され、その沿道に次から次へと壮麗な建築物が建てられていった。1860年から1890年の約30年間は『リングシュトラーセ時代』ともいわれ、ウィーンは最も華やかな時代を迎えた。1869年には、『ジョン・ドヴァンニ』でこけら落としした国立歌劇場(オペラ座)を皮切りに国会議事堂、ブルク劇場、市庁舎、ウィーン大学、ヴォーティーフ教会など、それぞれが古代ギリシャ、ゴシック、ルネッサンス、バロックなどの建築様式によって造営され、目を見張るような絢爛豪華さであった。1873年の株式の暴落に伴う大恐慌という悲劇はあったものの、この建築ブームのおかげで、経済界は異様な熱気を帯びた。ウィーンはすっかり様相を新たにして一躍、近代都市に変貌した。」
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こうして、帝国の首都として急速に発展し、交通渋滞が深刻化、都市計画が大規模に実現化され、ウィーン市営鉄道(シュタットバーン)が建設され、蒸気機関車が走り、後の地下鉄の基礎となって行った。古い城壁撤去後のリングシュトラーセに沿った市電なども計画され、建築家オットー・ワーグナーがユーゲント・シュティール様式を取り入れた総合芸術としての駅舎や高架橋のデザインを手がけた。その一部は現在も残されており、カールスプラッツ駅の駅舎のように大規模な構造からや手すり、照明灯、案内板、文字など総合デザインという考え方が今もうかがえる。幾度も書いているが市民公園周辺を通るたびに、一度はゆっくり歩いてみたいと思いつつ、添乗中はそれも叶わなかったが、この時は、写真を撮ったり、建物をじっくり眺めることもできた。建物には、Otto Wagner Dokumentation と案内が貼ってあった。(以下、次号) 

《資料》 
・中央墓地(Zentralfriedhof ):Vienna Info. 
・ウィーンの町・都市の美化:山之内克子著「ハプルブルクの文化革命」⇒ヨーゼフ2世&緑地へ向かう都市民。 
・ウィーン・リングシュトラーセの建設:江村洋著「フランツ・ヨーゼフ ハプスブルク「最後の」皇帝⇒帝都ウィーンの繁栄 
・オットー・ワーグナー:Wikipedia 

《写真、上から順に》 
・ウィーン中央墓地・聖カール・ボロメウス霊園教会(Wien Zentralfriedhof・Friedhofskirche zum Heiligen Borromäus): Wien Info.より 
・ベートーヴェンの墓に詣でる筆者:2011年 撮影 
・カールスプラッツ駅(U-Bahn – Karlsplatz):2011年 筆者撮影 
・一般開放されたプラーター緑地(1766年・すでにビジネスマンのための宿があった):The Jolly Hanswurst 「Prater」より 
・ウィーン環状道路の建設Ringbild / Ringstraßenbild 1890年当時、右側が国会議事堂、突き当り一帯に自然史博物館、美術史博物館、左側はフォルクス庭園。:Austria Forum資料より。 
・美術史博物館前(Kunsthistorisches Museum)にて、「ハプルスブルク家の栄華を訪ねる旅」の一行(前列右端 筆者): 2006年 撮影 
・オットー・ワ-グナー資料館(Otto Wagner Dokumentation :カールスプラッツ駅構内): 2011年筆者撮影