2026.09.07
小野 鎭
一期一会 地球旅 429 ドイツからオーストリアへの思い出、ミュンヘンからウィーン(11) またまたウィーンにて4
一期一会・地球旅 429
ドイツからオーストリアへの思い出、ミュンヘンからウィーン(11)
ドイツからオーストリアへの思い出、ミュンヘンからウィーン(11)
またまたウィーンにて④
ウィーン旧市街のそぞろ歩きから話がずいぶん飛躍してしまったので、また、市内に話を戻そう。この日は、さらに行動的で市電に乗り、グリンツィング方面を目指した。実はその前に寄ってみたいところがあった。「世田谷公園」である。中心街から少し北の方角にあたる一帯はウィーン第19区(デブリング区=Döbling)であり、UnterdöblingとOberdöblingがあり、世田谷公園は下デブリング地区と呼ばれる地域にある。市内には何か所か日本庭園があり、ウィーン市の観光案内にも詳しい説明がある。シェーンブルン宮殿にある日本庭園については以前に書いたとおりである。
世田谷公園は、東京の世田谷区とデブリング区の姉妹都市提携(1985年)を記念して、1992年日本の造園家により設計、作庭されたものである。竹垣、滝と池、木の橋、四阿(あずまや)、石灯籠、茶室などが置かれ、日本庭園を構成するすべての様相が揃い、楓や桜そして竹、なども植えられていた。区民たちにも喜ばれ、気に入ってもらえており、私たちが訪れた時も秋の陽を浴びながら、数人の人たちがベンチでおしゃべりを楽しんでいた。世田谷区の資料を見ると、姉妹都市(区)としては、カナダのマニトバ州の州都ウィニペグ、オーストラリアは西オーストラリア州のバンバリー、そしてウィーンのデブリング区が友好都市として提携しているとある。二つの区の共通点は、1)雄大な川が流れていること。世田谷は「多摩川」、デブリング区には、「ドナウ川」。2)両区とも緑豊かな住宅都市であること。中心街から少し離れた自然豊かで閑静な住宅街としての特徴。3)世田谷区が文化的な街づくりを目指していることと、デブリング区は音楽の都ウィーンにおいてベートーヴェンゆかりの地(田園など)として名高い文化的な背景を持っていることなどが共に一致していることとある。偶然ではあるが、自分は、この3つの町をすべて訪れていることになる。世田谷区の姉妹都市関係者であってもその3つをすべて訪れている人はあまりいないのではないかと思うと何となく優越感をおぼえるひとときであった。
公園で一休みして、タクシーでカーレンベルクの丘の上までドライブ。20分くらいだっただろうか。ドライバーは自分より若く50歳前後くらいであったかもしれない。 英語は苦手らしく、あまり要領を得なかったのでこちらが知っている限りの(?)ドイツ語を並べて、丘の上を目指してもらった。自分は1969年に初めてウィーンに来てから多分10回くらいは来ていると思うが、街の中心街などの建物は昔も今もほとんど変わっていないのが印象的であることをしゃべったことは覚えている。ドナウ川を渡った対岸のドナウシュタットと呼ばれる新市街に国連機関などがありウィーンがやはり世界的な存在であることも印象的だということを伝えたところ、彼は私の怪しげなドイツ語を何とか理解してくれたようであった。丘の上に着くと、ウィーンでの滞在を楽しみ、良い旅行を!と言って去って行った。丘の上からの眺めはこの日も素晴らしく、初秋のウィーンの森一帯は、緑と少し黄色や茶色が混じり始めていた。
カーレンベルクの丘の上からの眺めについて、もう一つ興味ある記述があることを知った。山之内克子(元神戸市外国語大学教授)著の「ハプスブルクの文化革命」のなかに「ウィーンの庭園 ― 世界支配の象徴から至福の園(エリジウム)へ」がある。18世紀、マリア・テレジアからフランツ帝まで四代のハプスブルク君主に仕えた辣腕官僚で啓蒙知識人の一人であったツィンツェンドルフ伯爵が1761年にカーレンベルクの丘の上へと山道を登ったときの感想である。「山頂の教会の塔に上がると、目の前には素晴らしい展望が開けていた。ここからの眺めは何とも魅力的なものだ。プレスブルクの城やボヘミアへと通じる街道・・・無数の小さな中州を擁したドナウ河・・・さらにシュタイヤーマルクの山々・・・を、一望のもとに見晴らすことができるのだから」そして、「この眺望を存分に楽しんだ後、ツィンツェンドルフらは周辺の美しい森林を逍遥し、野苺を摘み、休憩してはフランス戯曲を朗読しつつ、午前中を過ごすことになる。」とある。ツィンツェンドルフの日記には、ウィーンの知識階級の間で進行した価値観は、自然美と風景画への心酔が余暇習慣に関する劇的な変革をもたらしつつあったことがわかる。庭園や自然を背景に展開され、人々の具体的な営みを通じて明快に証言するという点で、この日記は極めて貴重な資料と言えるだろう、と著者はこの項を結んでいる。
日本での自然を賛美することは、和歌や詩歌、屏風絵や掛け軸などで万葉集の時代からすでにそれらが見られ、室町時代には雪舟、江戸時代には広重や北斎の絵画などに自然を楽しみ、それが芸術的にも高く評価されてきたと思う。その芸術の素晴らし さが19世紀末には、ヨーロッパでジャポニズムをもたらしていったと言っても良いのではないだろうか。ヨーロッパの啓蒙国家では、18世紀後半になって自然を賛美するという動きが出てきたということであろうか。確かにそれ以前の絵画や彫刻は宗教画であるとか、宗教についての主体的な表現が多く、自然を賛美するものはあっても宗教画の中の添え物であったのかもしれない。そんな難しいことを考えることもなく、私はウィーンに来るたびに、カーレンベルクの丘の上からの眺めをいつも堪能してきたことを思い出す。
丘のふもと一帯は、グリンツィング地区などであるが、ハイリゲンシュタット(Heiligenstadt)地区などもあり、昔はそのあたりを流れる小川や森などを散歩しながらベートーヴェンは交響曲第6番「田園」を作曲したのだろう、などと想像しながら、広いふもと一帯を眺めた。ハイリゲンシュタットは、よく聞く地名であるが、ウィーン市の中心部から北の方角一帯で、ドナウ川にも近い起伏のある地域である。ベートーヴェンは、この地域のあちこちに場所を替えながら住んでいたとのこと。彼が住んでいたという場所を示す地図が建物の壁に貼ってある。この地域で大きなホイリゲ 「マイヤース アム ファールプラッツ(Heuriger Mayers am Pfarrplatz)」があり、この時はここで少し早い夕食を摂った。レストランは、中庭風になっており、建物にはかつてこの家にベートーヴェンが住んでいたということで壁に肖像画が掛かっている。この店の案内を見ると、次のような説明がある。「ベートーヴェン(1770~1827)にとって、当時は未だウィーンの郊外であったハイリゲンシュタットでの滞在は深い感情に満ちたものであった。彼は、難聴に苦しんでおり、マイヤース アム ファールプラッツのすぐ近くにある療養所を訪れて症状が改善することを期待していた。そして、1802年に自身の難聴に対する絶望を『ハイリゲンシュタットの遺書』に心からのことばで書き残している。彼は、ハイリゲンシュタットで新たな活力を得た。そして、1803年から翌年にかけて交響曲第3番「英雄」を完成させた。1817年に彼はマイヤース アム ファールプラッツの2世帯住宅に移り住んだ。」このことについては、20世紀になって、ジョセフ・A・ルクスがベートーヴェンの伝記の中で書いているとのこと。
夕食を終えて、外へ出るとすでに薄暗くなっており、Am Mayersの看板に淡い灯が ともり、アルコールに弱い私は、それでも、心地よい酔いに浸っていた。タクシーでホテルへ戻った。今夜はウィーン最後、そして、この旅行の最終夜でもあった。帰国準備をしなければ、と荷物を片付けるつもりであったが、家人も息子も何となく物足りない様子で、元気はまだまだあるらしい。そこで、市電に乗って、グリンツィングまでもう一度出かけた。市電で20分くらいであり、電車の心地よい揺れにトロトロと居眠りしているうちに終点に着き、電車を降りると見慣れていた教会の尖った屋根が見えていた。そして、グリンツィングの中心部に、これもベートーヴェンの噴水(Beethoven Brunnen)という名前の噴水が中庭にある「Rudolfshof」というホイリゲに入った。ミュージシャンの奏でるワルツやポルカなど軽快なメロディは観光客向けであろうか、アメリカや日本の曲も加えてくれるなど、いわば国際版シュランメル音楽を楽しみながらウィーン最後の夜は更けていった。(以下、次号)
《資料》
・世田谷公園:Vienna Info.
・世田谷区とデブリング区の姉妹都市提携:世田谷区公式ホームページ
・ツィンツェンドルフのカーレンベルクの丘について:山之内克子著「ハプスブルクの文化革命」―ウィーンの庭園―世界支配の象徴から至福の園(エリジウム)へ
・ベートーヴェンとハイリゲンシュタットの住居:Heuriger Mayers am Pfarrplatz
《写真、上から順に》
・世田谷公園(ウィーン市 第19区(デブリン区=Döbling): 2011年筆者撮影
・カーレンベルクの丘から望むウィーン市街とドナウ川:2011年筆者撮影
・19世紀のカーレンベルクの丘、一時期頂上まで鉄道があったとのこと:Döblinger Heimat Kreis より
・ジャポニズムでも代表的な絵画:ゴッホ 「タンギー爺さん」西洋絵画美術館より
・ハイリゲンシュタットのベートーヴェンの住まい案内図:2006年筆者撮影
・ホイリゲ ルドルフスホフにてシュランメル音楽を楽しむ:2011年筆者撮影