2017.03.15 小野 鎭
一期一会 地球旅150 地球の歴史を見に行こう ラスベガス(その2)

一期一会 地球旅 150

地球の歴史を見に行こう ラスベガス (その2)

ラスベガスは、多分、10数回は訪れていると思うが残念ながらゆっくり滞在してこの町を細部まで見学したことはない。Sunrise Hospital and Medical CenterだとかMountain View Hospitalなどここでも名の通った医療施設はあるのに、多分、ラスベガスで病院見学などと言っても大義名分が立ちにくかったのであろう。従って連泊したこともないと思う。観光を主とした団体の添乗をした経験は少なく、一方でエンターテインメントやテーマパークなど、あるいは見本市などへの視察団のお取り扱いしたこともない。この地を訪れるとすれば、主たる視察あるいは研修などが終わったり、旅の途中で、グランドキャニオンに行くために夕方着いて翌日発つとか、その反対に夕方着いては翌朝、西海岸などへ飛び立っていくということが殆どであった。いずれにしても、経由地として立ち寄ることが殆どという何とももったいない話。ラスベガス観光協会には申し訳ない気持ちである。 そうは言いながらも、わずか一泊の滞在で、ショーを見たり、ルーレットやスロットマシン、ブラックジャックなどカジノで、その都度、腕試しは細やかに経験している。但し、カジノは授業料程度、なにしろ、添乗中とあれば、団体の食費や各地でのチップ、その他いろいろな経費を携行金として預かっているので、そこは十分にわきまえながら、自分の小遣いの範囲を厳守し、絶対に熱くなってはいけない、と自らに言い聞かせてきたことは言うまでもない。添乗員であれば、誰しもが課される鉄則である。毎回せいぜい夕食代程度の金額をその限度としてきたが、それでもいく度かチップをかなりの枚数積み上げたこともある。しかしながら、そのうち、次第に減ってしまい、元の木阿弥、引き際が下手で要領の悪いこと、お恥ずかしい限り。毎回滞在が短いのでせめて授業料だけは払ってきたと解釈している。
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ところで、初めてラスベガスを訪れたのは記録を見ると1969年7月7日であったらしい。全行程35日間の海外医療事情視察団の添乗で、初めての世界一周、そして、アメリカ初上陸であった。1964年に入社した会社では、4年間で4回の海外添乗経験をしていたが、4年半後にその会社から明治航空サービスに移った。海外視察や研修などの団体が多く、必然的に企画、営業、手配、添乗と大きな会社では考えられないような業務範囲、経理をのぞいては何でも屋、という言葉が当たっていたかもしれない。この時の視察団は、50名あまり全国の自治体病院つまり公立の医療施設の病院長や事務長、様々な診療部門の医師(部長)、放射線や検査の部長などで構成され、これに看護職が加われば多分2つか3つの病院ができそうな顔ぶれであったことを覚えている。社の先輩社員(役員)がチーフで、二グループに分かれて、部分的に合流したり、分派したり、欧州で3週間あまり、パリのオルリー空港から大西洋を渡り、ニューヨークに着いたのが7月3日であった。
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空から見るマンハッタンの摩天楼と自由の女神は圧倒的な印象であった。J.F.ケネディ空港に降り立った時は無性に胸が高まったことを思い出す。エンパイアステートビルに上ったり、ロックフェラーセンターや五番街を見学すると、お客様の手前、嬉しそうな顔をするわけにはいかなかったが、夢にまで見たニューヨークを初めて自分の足で歩いていると思わず興奮したような気がする。 その後、ワシントンDCとシカゴで病院見学をしたのち、大平原を横切り、ロッキー山脈とどこまでも続く砂漠を見降ろしながら、やがてラスベガスのマッカラン空港に着いた。国内線であるので到着ゲートには、現地手配会社のロス支店から、今も忘れないが、リンディ・ウエハラ氏が迎えに来てくれていた。当時は、まだ、ラスベガスを訪れる日本人団体も少なく、現地手配を行う会社も少なく、ロスかサンフランシスコが担当することが多かった。彼は、在米日系二世のとても明るく気のいいおっちゃんタイプ、空港からはホテルには直行せず、準備されていた貸切バスで砂漠の中をひとっ走り、案内したのがフーバーダムであった。ラスベガスの市内はまだ今のような野外アトラクションや見どころは少なく、数軒の大型ホテルとモーテルやカジノなどがあるくらいで人口も10万ちょっとだったらしい。30年前にできたこのダムのお蔭で南カリフォルニア一体とネバダ州の開発が進み、砂漠の中にも農場や町が少しずつ増えてきているとの説明であった。日本ではおよそ見たこともない広大な岩石砂漠が広がっていると思っていたが、少しずつ変わってきているということは興味深いことであった。 いよいよラスベガスのまちなかへ入っていくと、ストリップ一帯にカジノやホテルが集中しているとの案内に団員の先生方だけでなく、筆者も思わず、リンディの顔を見やった。彼はニャッと笑って、ストリップというのは、皆さんが考える其れではなく、ラスベガス大通り(Las Vegas Boulevard )の南側一帯のことを指しているとのことであった。後で辞書を見ると確かに「通り」だとか「端っこ」などの意味もあることを知った。ラスベガスは世界的に知られた観光都市であり、カジノやエンターテインメント、多くの娯楽施設のあるいわゆるIRC(Integrated Resort City)の代表的な例だと思う。しかし、まだ、海外旅行が自由化されてわずか5年、いまから半世紀近い昔、マフィアが取り仕切っているギャンブルの町と思う人も多く、色眼鏡で見られていることもあったかもしれない。リンディの案内で大きなホテルに入ってみると目の前にカジノが広がり、その圧倒的な風景にまたまた驚きであった。おかげで無事、チェックインを終え、夕方は別のホテルで行われているディナーショーを見に行った。パリで見た、リドのショーをコンパクトにしたような1時間足らずのプログラムであったが、客席は大いに盛り上がり、笑いと拍手、とにかくにぎやかであった。ショーと夕食が終わり、三々五々、お客様とカジノをのぞいた。ルーレットの経験も無ければ、ブラックジャックもわからず、ただ後ろから覗いているだけであったが、それでもスロットマシンでは25セント(90円)を何枚か落とし込んでじゃらじゃらやってみたが、あっという間であったような気がする。
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この時の旅券を取り出してみたところ、NLE  No.000とあり、T/C  US$1,000、Cash 40とある。つまり、日銀許可を得て、旅行者小切手1,000ドル、現金40ドルを購入したと記録がある。ほかに、日本円を2万円持ち出していることも書き込まれている。当時は、1ドル360円、つまり、37万4400円を外貨で持ち出したことになっている。外貨持ち出しが制限されており、通常は700ドルが限度であり。それ以上は、日銀の許可が必要、そんな時代であった。因みに、筆者の当時の月給は7万円余であった。つまり、月給5か月分以上の携行金であり、その面でも緊張しながら過ごしたことを思い出す。
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ラスベガスを訪れるのは、今回も一泊、それも明日は午前3時起き、モーニングコールはホテル任せにせず、自分で各部屋に電話を掛けることにしている。お客様のご機嫌伺いとポーターが荷物を回収に行くので渡していただきたいとお願いしてあるのでそれも確認しなければならない。この日は、間違いなくロビーには4時までにご集合していただくことになっており、そのことへのご協力を改めてお願いすることもあった。
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メンバー各位は、昨夕は街中を散歩して屋外アトラクションを楽しみ、さらにはショーを鑑賞されるという元気な人もあり、若さって素晴らしいな、と思った。多分、ほとんど寝る間もなかった人もあるかもしれないが、皆さんは快く応じてくださり、荷物も無事搬出され、こんな時間でもにぎやかなカジノを横目に見ながらバスへ乗車。まだ暗い町を抜けて空港へ向かった。 (資料 上から順に。ことわりないもの以外は、2015年9月撮影) 初の世界一周で得た旅券、28歳、かなりい い面構えであったらしい。(1969年) アメリカ入国ビザ、Jul.3,1969 New Yorkとスタンプが押されている。 外貨購入記録 TC1,000、Cash 40、日本円持ち出し 20,000.-とある。 市内散策を楽しむメンバー(B-POP様提供) Street Performers in Las Vegas(同上) (2017/03/14) 小 野  鎭