2025.07.14 小野 鎭
一期一会 地球旅 370 ドイツでの思い出(10) ボン:ベートーヴェンの生誕地にて(5)
一期一会・地球旅 370
ドイツでの思い出(10) ボン:ベートーヴェンの生誕地にて(5) 

 1年半に及ぶ準備を経て出発間近となり、壮行会が行われることになった。しかし、その前に私は、現地設営と旅行の詳細な手配を詰めるとか、さらに入念な確認をするために、もう一度、単身スイスのエンゲルベルクとドイツのボンを訪れた。その一方で姥山さんは、資金のことで大変な思いをされていた。コンサートを行うための現地経費と音楽関係者の日本からの旅行費など、全体にかかる諸費など総計2,000万円強が必要であり、財団法人東京都文化振興協会の助成を申請されていたが、その決定はコンサートのひと月前の4月1日であった。その承認は未定であり、もし、助成が受けられなかったときは、コンサートは行えず、一大事となる。万一に備えて、銀行からの借り入れをするための手立てもされていたことを聞いている。それだけに、助成決定の通知を受けたときは、姥山代表はもとより、団員全体が涙を流して喜ばれたことを覚えている。それにしても、いざという時は身代をかけて事に当たらなければならないのだという姥山さんの決意の大きさを改めて感じたのであった。 
 
 助成も決定され、旅行準備はいよいよ佳境に入っていたとき、また、新たな問題が生じた。団員の一人であるN君が急逝されたのである。私がこのことを聞いたのは業務で外出中であった。この時代は、まだ携帯電話はなく、外出中は社に電話を入れてメッセージは無いかと尋ねることが決まり出あった。そこで聞いたのがN君急逝であう。その瞬間、頭の中が真っ白になった。もし、何かの不都合で事故によるものであった場合は、コンサートが行えないばかりか旅行そのものが中止になるかもしれないと最悪の事態を想像したのであった。コンサート後の記念誌には次のような記述がある。「そんな時、共にドイツ行を生きる希望と目的に燃えていた重度脳性麻痺のN君が急逝した。しかも、ゆきわりそうに宿泊中の出来事であった。解剖の結果は『慢性細気管支炎』であり、呼吸不全がある場合、血中に炭酸ガスが増え続け遂には呼吸停止することがあるというものであった。当座は、いきなり奈落の底に落ちたような気分であった。(N君の)ご両親の励ましでやっとの思いでドイツへの出発となる。」 
 
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 壮行会は、N君の急死を悼み、鎮魂の祈りをささげることから始まった。そして、合唱指導のSさんは、あなたのために、私は歌う。あなたのために私はボンへ行く。あなたのために、あなたのために、あなたのために、なみだがこぼれる。(記念誌)通所訓練事業ポシェットの仲間たちは、N君の遺影と共に歌いたかったと頭を垂れた。彼のご両親は、悲しみにもめげず、旅行には予定どおり、参加されるとのこと。団員はどれほど勇気づけられたことだろう。団員は、等しくご両親の悲痛な思いとN君に心を寄せてコンサートでは力いっぱい歌おうと誓った。 
 
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 こうして、5月10日いよいよドイツへ向けて出発した。1988年のオーストラリアに行ったメンバーを含めてカナダや西海岸、あるいは鹿児島県の与論島などへ行った人もあり、いつしか長距離の海外旅行には慣れた人も多かったがフランクフルトはそれ以上に遠かった。何時間飛んでも眼下にはシベリアの大地がどこまでも続いていた。そして、前方の空に夕日が落ちるころフランクフルトに着いた。空港には、かねてより応援してくれていたT萩原女史の笑顔があり、ドイツ滞在中は通訳として活躍してくれた。団員はドイツ・マルクへの両替に興味津々であった。 
 
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 フランクフルトからボンまではリフト付き1台ともう一台の大型バスであった。団員総数は添乗員4名を含めて118名であったので60人以上は乗れる超大型であったと思う。日本では、リフト付き貸切バスはまだ少なかったのでその大きさに驚いた。リフト無しの大型はトランクルームに車いすを収めて、ステップをお姫様抱っこやおぶって座席まで移動していただいた。バスは乗り心地も良かった。途中、アスマンスハウゼンからコブレンツまでは遊覧船に乗った。3時間の船上では、両岸に続くブドウ畑や急な山の上に建つ古城などの景色を愛で、カフェで時を過ごすとか思い思いのひと時であった。しばらくするとバイオリンの音色が響いてきた。「埴生の宿」や「ローレライ」などのメロディーを一行の一人、並木信厚さんであった。日本では交響楽団でバイオリニストとして活躍され、今回は現地オーケストラの一員としても演奏することになっている。メンバーは、バイオリンの音色に合わせて口ずさんでいたりしているうちに、船端でラインの流れに目をやりながら出発前に急逝したN君を偲び、冥福を祈っている姿が見られた。 
 
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 途中、ライン川の名勝、ローレライの岩山が眼の前にそびえる頃、「ローレライ」が船上のスピーカーから流れてきた。カメラを構えてメロディーに合わせて口ずさむ人たちもいた。いつも思ったことがある。ドイツ歌曲として有名なこの歌は日本でもよく知られているが、船上で口ずさんでいる人は私と同年齢かそれ以上の人たちが多く、若い人はあまり歌っていなかったような気がする。中学時代、音楽の教科書に載っていて、歌った記憶があるが、いつしか教科書からは消えたらしく若い世代では知らないという人が多かった。ここでも時代の流れを感じたものである。 
 
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 一行は、ライン中流の大きな町コブレンツで船を降り、再びバスに乗ってボンに着いた。思えば長い道のりであった。この日からここで4泊、旅装を解いて翌日からの行動に備えていただいた。一年前の事前調査でこのホテルに泊まり、車いす使用の方にも使いやすい部屋(アクセシブルルーム)が数室あることを確認していた。今回は20人近い方が車いすを使っておられる。これらの部屋は、人数分を満たすことはできないが、同行家族やゆきわりそうのスタッフが入浴介助をするなど快適に過ごしていただけるよう相互に支援していただいた。今では、日本でもリフト付きのクルマや大型バスが普及しているし、アクセシブルルームも一定数の部屋数以上があるホテル等では設置が義務付けられている。車いすに限らず、視覚や聴覚に障害のある人たちに使いやすい部屋を置くことに力を入れるホテル等も増えている。しかし、30数年前のこの時代はまだ珍しかったような気がする。(以下、次号) 
 
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《写真、上から順に》 
N君の遺影と共に、ポシェットの仲間たち : 記念誌 ボンに響け、歓喜の歌より 
ボンに響け、歓喜の歌、そして憧れのスイスへ 携行日程 
リフト付き大型バス : 記念誌より 
船上でバイオリンを奏でる並木信厚さん : 記念誌より 
船上で楽しむメンバー : 1993年5月 筆者撮影 
ライン川の遊覧船(KD Schiff) : 記念誌より