2017.07.27 小野 鎭
一期一会 地球旅168 地球の歴史を見に行こう リンデンハウス 秋の東北へ(10)

一期一会 地球旅 168 リンデンハウス 秋の東北へ(10) 石巻 その2

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石ノ森満画館は石巻市内の中心部にあり、ここから当夜の宿泊地である南三陸町の志津川方面へ向かうには国道45号線を北上していくルートと、ほかに女川町経由の海岸ルートの2つがあった。震災と津波で大きな被害を受けた後者の方がより私たちの希望に沿ったコースであろうと思っていたが、それを決定する前に、今回チャーターした南三陸観光バスの担当者に相談した。彼の説明によると、今回の場合は、時間的制約があるので女川コースではなく、また、45号線コースでもなく、市内から北上して北上川の本流に沿って下流へ向かって走り、大川小学校跡を訪ね、そこから海岸沿いに志津川へ向かうことを勧められた。このような場合、現地のバス会社や観光協会の情報はやはりありがたい。ガイドブックや観光パンフレット、あるいは被災地に関するホームページなどを基にして独りよがりの考えでコースを組むとうまくいくこともあるが失敗することもある。結果的にはバス会社の担当者からの勧めに従ってコースを決め、当日のガイドにこれをさらに相談したところいちばん望ましいと思うとのことであった。
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旧北上川に沿いに走って市街地を抜けていくと車窓には修復されたらしい家屋が多数見られたし、ところどころに平屋の簡易住宅もあった。仮設住宅と呼ばれる建物であり、市街地を抜け、農村部や丘陵地が広がる道路際にも数か所の住宅群があった。震災から5年半過ぎ(訪れたのは2016年10月16日)、これらの住宅に住んでいた人たちは少しずつ自宅に復帰したり、新しく建替えたり、他のところへ移っていく人たちもあるらしいとのことであった。間もなく、今は本流となっている北上川(追波川)の堤防に沿った道路に出た。
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前方には葦(ヨシ)などが生い茂った広い河原が広がり、その中に悠々たる流れがあった。ここから厳密な意味での河口つまり追波湾までは14~15㎞あるらしい。途中、10㎞ほど過ぎた釜谷地区に新北上大橋がかかっており、そのすぐ近くに大川小学校があった。秋の陽が少し傾いてきた頃、この大橋のたもとを下っていった広い空き地に大きく壊れた校舎の無残な姿が建っており、建物の上部にサクラの中に大と描いた校章が見られた。そして、かつては運動場であったとおもわれる空き地の一隅に真新しい慰霊碑が建てられていた。 2011年3月11日、東日本大震災が起き、そのあとで北上川を遡ってきた津波(昔は海嘯とも呼ばれていたそうですが)に襲われて全校生徒108人のうち、
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当時、校庭に避難していた78人の児童中、74人、教職員13名中10人が死亡または行方不明という大惨事になったとある。慰霊碑にはこの時、犠牲となった児童や教職員、近隣の住民たちの名前が彫り込まれていた。その前には祭壇が置かれ、この日も詣でた人があったのだろう、線香にはまだ煙が揺らいでいた。ガイドの説明を聞いて、驚くほどの惨劇が繰り広げられたであろうその場所に立ったメンバー各位は慰霊碑の前に立ち、手を合わせて長い時間深く頭を垂れている姿がひとしお印象的であった。 すべて後日譚であるが、地震が発生して学校側では児童の安全を図るため、校舎から退避して校庭にいたそうであるが、その後、どこへ避難するのがいいのか教職員間での議論がまとまらず、50分すぎたころ高さ10mを越える津波が北上川を遡上して堤防を越えて学校や一帯の民家などを激流の中に飲み込み、大惨事が起きたとある。
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石巻市のハザードマップには、この地を津波が襲うことは大きくは想定されていなかったらしい。校庭のすぐ向こう側には小高い山があるが急斜面で雪道でもあり、子どもたちには容易ではあるまい、むしろ、橋のたもとの高台に行く方が妥当ではないかなどの議論もあったらしい。それやこれやの議論がなされているうちにそれらはすべて大惨事へと変わってしまったという。現地を訪れてその場所を見るにつけ、多数の命が失われたことが何ともつらい思いであったというのが正直なところであった。その後、多くの見方が為されているが、多くはなぜあの山に避難しなかったのであろう、という素朴な疑問がたくさん見られる。山の斜面の一番下の方に白いサインがあり、津波はこの高さまで覆ったと書かれていた。
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私たちが訪れた時、NHK仙台の放送記者が現地で取材しており、慰霊碑に詣でる人たちへのインタビューを行っていた。代表の中島寮長もグループの旅行の目的とこの場所を訪れた理由を説明された。後でわかったことは、ここで亡くなった児童の遺族が宮城県と石巻市の避難誘導の在り方を巡って民事訴訟が為され、その判決がこの年、10月26日に判決が出されることになっていた。それもあって、マスコミはこの場所を訪れる人たちたちの意見や感想を求めていたのであったらしい。仙台地裁での判決は学校側の過失と認定し23人の遺族に対して損害賠償として14億円の支払いを石巻市と宮城県に命じたそうである。
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筆者自身、慰霊碑に向かい、刻まれた一人ずつの名前を読み、これらの人々があっという間に津波に飲み込まれていったであろう様子を想像するとこみあげてくる悲しさを抑えることができなかった。そして、もしこれが旅行団であって自分が添乗員として自分がその場に居たとすればどのように動いたであろうか、それを考えるといたたまれない思いであった。校庭に残っているコンクリートの壁にそれまでの卒業生たちが描いた絵や残したことばを読むにつけ、自然の猛威に対抗しえなかったこの大惨事が伝えていることをもっと知らなければならないと感じた。 (以下、次号とさせていただきます) 資料(上から順に、撮影は2016年10月16日) 石巻から南三陸町志津川へのコース、翌日は仙台へ戻った。 石巻市郊外の仮設住宅群。 壊れたかつての大川小学校の校舎、建物は存置されることになったとのこと。 慰霊碑の前で手を合わせ、頭を垂れるメンバー各位。 校庭の向こうの小高い山、ふもとの少し上に、この高さまで津波が来たという白いサイン。 NHK仙台放送局の取材があった。 校庭には代々の卒業生が描いた記念の絵画があり、「未来を拓く」という言葉があった。 (2017/07/25) 小 野  鎭