2024.01.15 小野 鎭
一期一会 地球旅 295 中南米での思い出 2
一期一会・地球旅 295 
中南米での思い出 ② 
ブエノスアイレス ① 

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 エセイサ空港から市内に向かう車窓風景は、メキシコで眺めた乾いた大地と違い、ヨーロッパを思わせる緑いっぱいの潤いが感じられて心が洗われるような想いであったと記憶している。アルゼンチンの首都ブエノスアイレスは、南米を代表する大都市のひとつで、市内中心部を南北に走る7月9日大通り(Avenida 9 de Julio)はこの国の独立記念日(1816年7月9日)にちなんでおり、19世紀末に建設計画が立てられたが最初の部分が出来上がったのは1937年、現在見られるように完成したのは1960年代だったとか。片側7車線プラス2車線だそうで、街区一つがそのまま縦につながって道路として使われている。世界一広い大通りだそうで、両側には壮麗なビル街が並んでいるが、考えてみると私たちが訪れた70年代は、この通りが完成して10年もたたない頃であったことになる。東京などの大通りと比べて、そのスケールの大きさに驚いたことを思い出す。大通りから別の通りへ曲がり、途中で降りて眺めた豪壮な建物は国会議事堂であった。説明を見直すとネオ・クラッシック・スタイル(新古典主義様式)の大理石造りだそうで、19世紀末から20世紀前半にかけて、この国が経済的にも大きく発展した時代の中頃にあたり、その勢いもあって建てられたのであろうか。 
 
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 ここでは、シェラトンに泊まったが近くにはラプラタ川(Rio de La Prata)があり、高層階からは川面を見渡すこともできた。この川は、ウルグアイ川、パラグアイ川、パラナ川などの大きな支流があり、全体としてはアマゾンに次ぐ南米第二の大河である。河口付近は特に川幅が広く、地図を見るとここブエノスアイレス付近でも対岸まで50㎞は優にありそうで、もちろん対岸などは見えなかった。海そのものといった光景であり、このあたりは淡水なのか、それとも海水なのか、または汽水と呼ぶべきなのか、確認することもしなかった。一つ言えることは、上流から流れてくる土砂のせいであろうか、茶色く濁っており、ラプラタとは銀の川を意味するが、名前とはだいぶ趣が違っていたことは今も覚えている。 
 
 この国は、世界第8位という広大で肥沃な国土を有しており、それもパンパと呼ばれる豊かな草原が広がっている。農業においては優位であり、19世紀末から20世紀にかけて南欧諸国から積極的に移民を受け入れ、力強い経済発展を遂げた。20世紀前半の30年間でアルゼンチンの人口、総所得、一人当たり国民所得はカナダやオーストラリアを上回り、1913年当時は、世界で十指に入る豊かな国であり、1929年には世界第5位の経済大国であったという。そんな過去の栄光が首都ブエノスアイレスの市内各所に残っており、コロン劇場であるとか国立美術館、レコレータ墓地など多くのところが観光名所にもなっている。 
 
 そういえば、子供のころ読んだイタリアの作家アミーチスの「クオレ:愛の学校」にある「母をたずねて三千里」ではアルゼンチンに出稼ぎに出かけた母親を尋ねてイタリアのジェノアからブエノスアイレス、そしてコルドバさらにトゥクマンまで旅をした少年マルコを思い出した。今では南米からヨーロッパに出稼ぎに来ている人が多いが、ここでは反対にイタリア人がアルゼンチンに行っていた19世紀末の話。 
 
 マルコの母親は少し違うかもしれないが、イタリアやスペインから春になると南米にやってくる季節労働者が、冬になると北へ帰っていく「ゴロンドリーナ」=燕移民(季節鳥)と呼ばれていたことも思い出す。ラ・ゴロンドリーナ(La Golondrina)はメキシコの有名な民謡。好きなメロディでついつい聴きたくなる。ナナ・ムスクリ(Nana Mouskouri)やカテリナ・ヴァレンテ(Caterina Valente)など歌っている。 
 
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 ところが、1929年から始まった世界恐慌、1930年代には、クーデターが勃発して軍事政権が誕生、その後、民政移管さらに軍政と混乱がつづき、長い経済不振から国としての債務不履行を繰り返し、2020年には、9度目のデフォルト状態に陥ったことが報じられた。2023年には、殺人的インフレ(2023年前半で185%)、国民貧困率40%など極度の経済難に苦しんでおり、左派政権が見限られ、2023年11月の大統領選挙では、アルゼンチンのトランプを自称する経済学者で右派政党のハビエル・ミレイを大統領に選んだ。彼は、アルゼンチン・ペソを止めて、米ドルを自国通貨として使うことを公約に掲げており、この先、この国はどう復活していくのであろうか。12月30日に聞いたニュースでは、BRICS諸国との関係は維持していくが、これまでよりも親米関係を強化していくとのこと、この国の厳しい現状から脱出していくことを期待したい。 
 
 そんな現在のアルゼンチンであるが、私たちが訪れた1970年代も軍政と民政が交互に行われている時代であった。一見したところ平和で特に緊張感を覚えることはなかったと思う。一つ言えたことは、両替についていえば公定レートと闇レートに大きな差異があったことである。もっとも、日本円の対ドル相場も、1971年にそれまでの1ドル=360円の固定相場から、ニクソン・ショックと言われる大きな変動があり、270円見当まで上昇、1973年に変動相場制に移行。70年代前半は265円から300円くらいまで大きな動きがあり、日本経済自体が変動相場への移行や第一次石油ショックなど大きな試練を浴びていた時代でもあった。1975年のアルゼンチン・ペソも国家経済の大きな揺れから相場が大きく揺れている時代であったらしく、当時のレートは1ドル=39.20~79.20ペソであったと記録がある。公定相場も国家銀行と経済関係省庁によって相場が違っていたと書かれており、それもまた驚きであった。 
 
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 旅行者の立場で言えば、驚いたことに両替所のすぐ裏側に小さな窓口があり、そこで若干の手数料(?)を払うとその奥に別の両替デスクがあり、特別レート(闇相場と言っていいのだろうか)で両替できたことである。宿泊費や団としての食事代は前もって現地手配会社にすでに払い込んであったが、現地払いの食事代やチップなどを支払う都合もあり、全期間分の外貨としてUS$1,500(邦貨で約46万円)を携行していた。ブエノスアイレスでも、ある程度まとまった金額が必要であり、闇ドルが違法であることは承知していたがガイドの手引きでこの裏口両替を利用したことは今でも覚えている。両替の証拠になる公的交換証明がなければ使い残した場合は元の通貨(この場合、米ドル)に戻すことはできないので現地通貨は使い切ることが肝要。そこで必要な金額概算以内で替えたことは言うまでもない。もし、闇レートで交換したことが分かったときの不安はあったが、ガイドに言わせるとこの国では、そんな心配はまず不要、だとのこと。妙なところで安心したことも懐かしい。(以下、次号) 
 
【資料と写真、上から順に】 
《資料》 
・アルゼンチン経済の歴史 : Wikipedia より 
・アルゼンチン国会議事堂 
(Palacio del Congreso de la Nación Argentina):Wikipedia 
《写真など》 
・アルゼンチン国会議事堂 : 1975年1月 筆者撮影 
・ブエノスアイレスのラプラタの岸辺 : 1972年11月 筆者撮影 
・南米アルゼンチンで12月10日、独立系右派のハビエル・ミレイ氏(53)が大統領に就任した。任期は4年。年150%近いインフレなど経済危機への対応を急ぐ。外交では米国との関係を重視する=ブエノスアイレス 【EPA時事】(時事通信2023/12/11) 
:南米アルゼンチンの国家統計院は11日、2023年12月のインフレ率が前年同月比211・4%に上ったと発表した。地元メディアによると約30年ぶりの高い水準。経済危機が長期化している同国では、12月に通貨の米ドル化などを掲げたミレイ大統領が就任したばかりで、危機脱却に向けた手腕が問われている。(毎日新聞 2024年1月12日) 
・米ドルへの外貨交換記録(旅券の末尾に書かれている) : 1975年1月24日