2025.06.30 小野 鎭
一期一会 地球旅 368 ドイツでの思い出(8) ボン:ベートーヴェンの生誕地にて(3)
一期一会・地球旅 368
ドイツでの思い出(8) ボン:ベートーヴェンの生誕地にて(3) 

 やがて、ムッタース氏から返事が届いた。氏は音楽関係には詳しくないと仰っていたが内容は私どもにとって福音であった。Lebenshilfe Bonnが協力して下さること、ケルンの福音派教会の合唱団が私たちと一緒に歌うことについて興味を示していることなどが書いてあった。オーケストラや指揮者についてもボンのコンサートホールなどを通じて探していることが分かった。さらに、強調されていたのは、かつての東ドイツがドイツ連邦共和国に加わること、いわゆる東西ドイツの再統一が進んでおり、東側の知的障害者福祉の向上にも目を向けて欲しいということであった。ムッタース氏からの連絡は、私たち合唱団にはさらに励みとなり、練習にはいっそう熱が入っていった。ボンでのコンサート終了後の記念誌には、そのころのことについて、次のように書いてある。 
 
 「第1回目の第九から参加して、ゆきわりそうの国外旅行を毎回、成功させている明治航空サービスの小野鎭氏が国際的な精神薄弱者(当時の表現)のための学会で長年、交流のあったドイツ精神薄弱者福祉協会連合会(当時の表現)の名誉会長トム・ムッタース博士にドイツ・ボンにおける障害者を中心とするコンサート実現のための協力要請を行う。」とある。 
 
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 mutterは、英語では「ぶつぶつ不平を言う」などの意味があるが、ドイツ語でMutterは「母親」の意味。それもDr. Muttersと複数であり、それを自分はたくさんの母親たちが応援してくれているのだと解釈して嬉しかった。氏とはアジア会議などで挨拶を交わすことから少しずつ親しくなっていったがやがて知ったことは彼がドイツの障害者福祉協会連合会のトップであることであった。それに対してこちらは一介の旅行会社の添乗員である。それにもかかわらず、私を一人の人間として親交を保って下さっていたことは本当に有難く、感謝の念に堪えなかった。 
 
 少しずつ、やり取りを重ねていくうちに現地手配会社(Land Operator)のフランクフルト事務所を通してムッタース氏や諸団体などとのやり取りや細部にわたっての準備が徐々に進められていった。本格的に準備が始まると、練習は、私たちの合唱指導者など音楽関係の専門家に委ねることとしても、現地側の協力体制についてはオーケストラ、指揮者、合唱団、会場、集客、それへ向けての資金をどうするかなど気の遠くなるような話が続出した。そして、それらを整えていくには1年乃至1年半が必要であろうと想定された。 
 
 旅行そのものについては、ボンと前後の訪問地などを含めて大まかな旅行計画を立案した。全体としては、10日間前後とするが、グループは、ボンだけの往復コースとボン終了後スイスの景勝地を含めた遊覧コースの2グループとすることを提案した。ボンには、日本からの直行便は無かったのでフランクフルトに入り、そこから陸路ボンに入ること。航空会社は依然として日本の会社は大勢の車いす使用者が予想されることに難色を示したので、ルフトハンザ・ドイツ航空の利用と後援を求めた。このようなことを旅行計画の骨子として姥山代表に提示し、旅行準備を始めていった。 
 
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 そして、具体的に諸条件を確認し、準備を進めていくために現地への事前調査をすることになり、1992年5月の連休明けに姥山代表とスタッフ、それに私を加えた3名でボンへ出かけることになった。航空会社はルフトハンザ(LH)を利用し、成田空港やフランクフルト空港の様子などを探ることも大切であった。フランクフルト空港は成田より規模も大きく、空港内の混雑も予想されるのでそのことも意識しておくことが必要であった。ゆきわりそうでは、1988年のオーストラリアに始まって、それからほとんど毎年、国内外への旅行を実施されており、成田空港の様子や大型機の機内設備と乗務員の対応などについては、かなり要領を掴んでおられた。毎回、ゆきわりそうのスタッフが同行されることで重い障がいのある人も快適に旅行を楽しまれており、その経験を活かして、ボンに備えることに意欲を示しておられた。フランクフルトからボンまでは、旅行本番では大型バスでの移動を予定しているが、この地域にはライン渓谷の景勝地があり、途中で船上遊覧を楽しんでいただくことを提案。さらにボンには、比較的大型のモダンなホテルがあり、車いす使用者などに配慮されている部屋も数室あり、これをぜひ使わせていただきたいことも強調した。 
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 事前調査の目的は、なんといってもムッタース氏との会合であり、会場、音楽関係者との打ち合わせ、集客のための広報などが検討課題であった。ムッタース氏はプロの音楽関係団体などは通さずに、つまり、出来るだけ経費をかけずに様々な準備をして下さっていた。この段階では、Lebenshilfe Bonnとドイツ西部の大都市ケルンの福音派教会(Kartäuserkirche、Köln)との呼びかけにより、ボン市=Stadt Bonnの協力を得られることが内定していた。指揮者もそのような準備の中で候補が探されていたらしい。会場としてはBeethovenhalle Bonnがあるがこれは車いす使用者が多いとすれば、全員が舞台に上がることはむつかしいだろうという話も聞いたが真相は分からなかった。ボン市の協力が得られることでもう一つ提示されたのはStadthaus Bonn=ボン市庁舎のホールでありこれも候補の一つではあったがこちらとしてはOKとは言えなかった。 
 
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 指揮者とオーケストラ、そして会場探しが今後の最大の課題であった。ムッタース氏は、難問はたくさんあるがボンの支部とケルンの合唱団などとも相談しながら、残っている大きな課題の解決に取り組んでいくことを約束して下さった。そして、コンサートの開催時期は、来年、1993年5月中旬とすることで暫定的に予定が決まっていった。5月のドイツは、一年でもっとも快適な季節と言われており、滞在はきっと楽しくなるだろうと期待された。今後の詳細なやり取りは、ムッタース氏と小野で連携を保つと共に、Land Operatorのフランクフルト事務所を通じることを確認しあった。もう一つ、ラッキーなことがあった。かねてフランクフルトなどで通訳として活躍しているT.T.萩原女史が第九コンサート参加の経験があり、今後のやり取りには積極的に支援してくれると約束してくれたことである。 
 
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 「歓喜の歌」は、EUの音楽でのシンボルと言われているが、私たちが準備にかかっていた1990~1992年頃、EU(欧州連合)はまだその前身であるEC(欧州共同体)であった。「歓喜の歌」は、ドイツの詩人フリードリッヒ・フォン・シラーの人類愛と平和を理想とする心にベートーヴェンが共感して作曲したとされ、その理想はEC(後のEU)と共通している。それは、欧州の共同体意識と各国市民の平和に対する賛歌であろう。残念ながら、当時は、欧州共同体の音楽のシンボルということについては私が浅学でそこまでは考えが及ばなかった。もし、私たちがボンでコンサートをやりたいと願う理由の中に「歓喜の歌」= An die Freudeが欧州共同体を象徴する歌であることについても強調していればムッタース氏などはさらに理解し易かったのかもしれない。(以下、次号) 
 
《写真、上から順に》 
・第8回AFMRアジア会議 学校見学、後列中央がDr. Mutters 1987年11月、シンガポールにて。筆者撮影 
・ライン川の遊覧船 : 1992年5月 筆者撮影 
・ボン市内 ベートーヴェン像 : 1992年5月 筆者撮影 
・ケルン・カルトゥジオ派教会 : ケルン・カルトゥジオ派教会 資料より 
・An die Freude 歓喜の歌 ヨーロッパ賛歌 : EU資料より