2024.01.29 小野 鎭
一期一会 地球旅 297 中南米での思い出 4
 
一期一会・地球旅 297 
中南米での思い出 (4) 
ブエノスアイレス ③ 
 ブエノスアイレスと言えばもう一つ忘れられない思い出がある。1975年の食肉事情視察団より3年前、私は初めて南米に行っている。ヨーロッパを経て大西洋を南下、サンパウロからリオを回り、ブエノスアイレスに入った。1972年10月のことである。そのあと、ペルーからパナマ、さらにアメリカのロサンゼルスとハワイを経て帰国、何ともスケールの大きな世界一周であった。文部省派遣の海外教育事情視察団で30日間、30名の大きなグループ。全国から主として公立学校の校長&教頭はじめ、多くは教諭であった。1970年に大阪万博が開かれ、日本は高度経済成長の真っただ中、右肩上がりという言葉がよく使われていた。海外視察も盛んになり、様々な業界団体などがよく言われた欧米先進国や東南アジアなど、それぞれの関係分野の視察や研修をして日本の発展のためにこれを参考にしようというのが目的であった。自分は、医療や福祉、農業・農協などの添乗が多く、1966年に初めての添乗経験から次第に東南アジアから欧州、さらにアメリカなどへも出かけるようになっていた。 
 
 海外教育事情視察団は、これからの国際化時代へ向けて青少年に広く海外へも目を向けさせるために、先ずは学校の先生方に海外の学校見学し、社会事情について見分していただこうとの趣旨であった。当初は、文部省主催で校長・教頭や教諭、地方自治体の教育委員会の管理職などで30日間、アジア各国、オセアニア、北米、ヨーロッパなど各数か国を回ることであったが、まもなく、国主導のもと、都道府県の主催で主として16日間の短期派遣も実施されるようになっていった。この事業は、1970年代初めから1990年代にかけて実施され、多くの教員や教育関係者が海外の学校教育や社会教育事情などを視察し、青少年に海外へ目を向けさせるために効果があったと思う。旅程は、主要目的国の2か国で各4日ずつ教育事情の視察、ほかに数か国(数都市)が含まれ、文化・歴史や社会事情について見聞することが含まれていた。 
 
 筆者は、長短4団ずつ担当した。それと並行して、医療や福祉、農業、建設関係などの視察や研修、国際会議参加などのグループの添乗で多くの見聞をすることができたので自身の人生経験においても大変学びが多かった感謝している。 
 
この海外教育事情視察団の一つが1972年の南米であり、これは、文部省としても初のラテンアメリカへの派遣であったと聞いている。それだけに担当旅行会社ならびに添乗員はよほどしっかりやってほしいと念を押されたとのこと。自分が担当するように、と社命を受けたのは、当時、スペイン語を少し勉強していたこと、医療や福祉関係の添乗で行政関係との接触も多く、在外公館とのやり取りも割に要領を得ていたということであったかもしれない。加えて、一か月間社を空けても経営や社の運営には差し支えないこと。初めての添乗から5~6年が過ぎており、欧米はそれなりに詳しくなってきていたし、諸体験の土地であっても割に卒なくこなしていたことなども上層部では判断したらしい。選ばれたことは大変誇らしい思いであったが、現地事情などを調べることはそれなりに大変であった。今のようにインターネットがあるわけではないし、「地球の歩き方」はまだ出されておらず、南米などに路線網を持っている航空会社などで出している都市案内や海外移住協会などに行って資料をもらったりした。南米に行ったことのある先輩の話はもちろん貴重であり、細かく聞きかじった。学校訪問等の手配は、文部省から在外公館へ依頼されており、現地で準備を進めているので、詳細は現地到着後、確認するように、との説明を受けていた。 
 こうして、10月19日出発、ヨーロッパでは、フランスのパリとスペインのマドリッドが準視察地であり、この2都市を経てサンパウロで4日間の学校訪問等、さらにリオを経てブエノスアイレスに着いたのは全体のほぼ半分を過ぎた頃であった。空港から町へ向かうバスの車窓から見る風景は1週間余り過ごしたブラジルよりはさらに南であり、さわやかで緑濃く、建物などもドイツなどヨーロッパのたたずまいを想わせ、旅行者にとって優しく感じられる趣であった。 
 
 到着翌日から学校見学など専門視察が行われたが、変事が起きたのは学校訪問の第1日目であった。見学中に在ブエノスアイレス日本大使館から電話があり、添乗員(Conductor de Gira)を呼び出してほしいとのこと。急ぎ、職員室に行き、電話に出たところ、「次の目的地であるチリのサンチャゴでは、政情不安が高まり、近日中に騒乱が起きる恐れがあるので団としての旅程を変更することを検討してほしい」とのことであった。 
 
 当時、チリは左翼のアジェンデ政権下にあった。経済失策などが続き、悪性のインフレ、物資の困窮などが続き、社会不安や混乱が常態化しており、それも次第に増大化しているとのこと。出発前からある程度は日本にも伝わってきていたので多少の懸念はあったが、それが現実に起きるとは! まさに寝耳に水、青天の霹靂といった感じであった。早速、団長に報告した後、さらに詳細を知るべく、団長・副団長などと日本大使館に出向いた。大使館には、在チリ日本大使館から現地事情などがかなり詳しく伝わってきており、現地在住の日本人なども緊張しているとのこと、まだ、空港閉鎖などの事態は起きていないが、社会不安が高まっており、これから先、さらに深刻な状態に陥ることもあり得る、現段階では、サンチャゴに入ることはできるだろうが、滞在中に事態が急変して空港閉鎖などが発生すると出国できなくなる、チリでは学校見学等の公的予定は当初から組み込まれてはいないので、この際、チリ入国は避けることが望ましい。との説明であり、勧めであった。 
 
 この団体は、文部省の派遣であり、特に今回の団長は、本省の課長であり、公務出張として主訪問国以外にも経由各国の在外公館にも情報としては伝えられており、必要な場合にはその情報に従って必要な連絡や通達が行われることになっているらしい。 
急ぎ、ホテルへ戻り、団として今後どうすべきかが協議され、団長から文部省へ国際電話を入れて、今後の方向について相談された。その結果については、次号とさせていただこう。(以下、次号) 
 
《写真、上から順に》 
・パリ滞在、2日目、ベルサイユ宮殿も見学した。団員29人のうち、女性は4人であった。準視察地であるが、団員は、スーツ姿が多かった。中央が筆者。(1972年10月 撮影) 
・マドリッドでは、古都トレドも見学した。(1972年11月、筆者はかなり細かった) 
・学校見学(小学校高学年であったと思う、サンパウロ郊外のモジ・ダス・クルージェスにて) (1972年11月、筆者撮影)