2025.06.23 小野 鎭
一期一会 地球旅 367 ドイツでの思い出(7) ボン:ベートーヴェンの生誕地にて(2)
一期一会・地球旅 367
ドイツでの思い出(7) ボン:ベートーヴェンの生誕地にて(2) 
 
 姥山さんが、ドイツへの伝手探しということで様々な可能性を探っておられたのは東京文化会館でのコンサートから2~3か月過ぎたころからであったらしい。ドイツの施設関係者に伝手はないだろうか、大学教授や音楽関係者にも接触されたが確たるところや人などは容易には見つからなかったと聞いている。音楽家であるとか音楽関係の業者などには最初の時もこの時も相談されたことはなかったと思う。そのような余裕がなかったというより、あくまでも手探りで自分たちの手法で探していくというのが当初からのやり方であった。私たちの合唱団の特性、つまり、重度の障がい者を核とする素人集団であること、ソプラノ、アルト、テノール、バスと合わせて第五パートがあることなどを聞くと多分、ドイツ側には容易には理解してもらえないだろう、と否定的な反応が多かったと聞いている。 
 
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 一方、ドイツでは、東西に分離していた東ドイツの諸州が西ドイツ、即ちドイツ連邦共和国へ加盟するというかたちで東西ドイツの統一が成し遂げられていたころであった。そのような国家的、歴史上の大変遷を遂げている最中に私たちの願いに耳を傾けてくれる人はいないだろうという声も聞いた。それは極めて納得できる話であった。そんな状況にあったころ、姥山さんから聞いて、私もなんとか伝手はないだろうかと真剣に考えてみた。初めてドイツを訪れた1966年から1990年頃まで、多分、5~60回はこの国を訪れており、主たる分野は医療や福祉、年金、漁業や建築関係の団体の添乗であったが、このときは確たる心当たりは思いつかなかった。そんな中で気づいたのがDr. Tom Muttersであった。 
 
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 1976年に米国のワシントンDCで行われた国際精神薄弱研究協会(当時の団体名:IASSMD)世界会議に参加するため、日本精神薄弱研究協会(当時の団体名であり、現:日本発達障害学会)が主催された団体の添乗をした。参加者は研究者、医師、学生、施設関係者等であった。このグループは、会議に先立って、シアトルやカンサスシティで州立大学の関 係学部や関連施設の視察訪問をされた。また、会議終了後はロサンゼルス郊外で大型施設などを見学された。私は、各地の訪問施設や会議の小セッションでは通訳を務めさせていただいた。発達障害や教育&医学関係の専門語が分からず四苦八苦し、旅行中は、冷や汗のかきっぱなしであったが、先生方のご指導とご支援のお蔭で何とか大役を務めることができた。この時のご縁で翌年、インドのバンガロール(現ベンガルール)で行われたアジア精神薄弱会議参加旅行団(当時の表現)のお世話をさせていただいた。会議の参加者はアジア各国の知的障害関係の専門家や関係者などが多かったが、アメリカやヨーロッパ、オーストラリアやニュージーランド等からの専門家も参加していた。 
 
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 このアジア会議は、隔年で、この後もクアラ・ルンプール、香港、シンガポール、ジャカルタ、コロンボ、カラチ、ソウルと続き、私は毎回、日本からの団体の添乗を務めさせていただいた。この時代は多くのアジア各国が発展途上国であり、知的障害関係分野の福祉や医療、教育はまだ整っていないところが多く、欧米のこの分野での専門家が指導や支援にあたっていた。国家的な取り組みもあれば、欧米の財団や宗教関係団体等の支援や協力であったと思われる。アジア各国のメンバー始め、欧米からの参加者はリピーターも多く、私は、次第にそれらの人々と親しくなっていった。そのうちの一人がDr. Tom Muttersであった。彼は、ドイツのStiftung Lebenshilfe für Geistig und Köpper Bihinderte 知的&身体障害者生活援助団体の会長であった。この団体は、現在はBundesvereinigung Lebenshilfe e.V.(独)となっており、ドイツ連邦レーベンスヒルフェ協会=日本語でいえば、「ドイツ知的障害者育成会」となるのであろう。 
 
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 彼が、ドイツを代表してアジアのいずれかの国のこの分野に関わっておられたのか、それは今となっては分からないが、ほとんど毎回、私は彼の姿を見かけたし、アジア会議以外にも77~90年代は知的障害関係施設、特別支援教育、親・兄弟の会(育成会)などこの分野のほとんどの国際会議などへの添乗をしていたのでアジア会議以外の場で彼に会うこともあった。そのような理由から氏とは親しく言葉を交わすようになっていった。私自身がたびたびドイツを訪問していたし、少しではあるがドイツ語会話もできたので彼自身も興味を持ってくれていたのかもしれない。そして、いずれ、知的障害関係のドイツに行くことがあれば、ぜひ、マールブルクにLebenshilfeの本部を訪問する機会を作りたいと伝えていた。そして、それは間もなく実現することになった。1989年に北 海道精神薄弱者愛護協会(当時の名称、現:北海道知的障がい福祉協会)のヨーロッパ研修団のお世話をさせていただいた。ドイツではレーベンスヒルフェの本部を訪ね、マールブルク市内で施設見学をしたのち、その協力でストットガルトでも施設見学などをすることができた。 
 
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 そのような経過があり、91年、パキスタンのカラチで開催されたアジア会議の折、彼にドイツでのコンサートを開催することで協力していただけないだろうかと申し出た。彼は、少し間をおいて、自分たちの組織では、かつての東ドイツの知的障害者関係へのサービスを拡充しなければならないという大きな任務がある。加えて、自分は音楽ということについては、詳しくないので直接協力することはできないと思う。ただし、ボンの支部に協力を求めることができるかもしれないと答えてくれた。私は、これを朗報と捉えてパキスタンから帰国するとすぐに姥山代表に伝えた。代表は小躍りせんばかりに、「小野さん、そんな知り合いがあるなんて!」と喜ばれ、準備がどんどん進んでいるかのように顔色が明るくなっていった。 
 
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 そして、早速、ムッター氏に手紙を書いた。前にも書いたが、当時は、インターネットやEメールもなく、ほとんどが航空郵便やFAX、その上で急ぎの場合は国際電話であった。電話料金は高かったので、指名通話として、相手がいなければ通信費が発生しないようにと気を遣った。FAXを送る場合もいきなり送るのではなく、予め、先方と確認したうえで送ることが多かった。FAXは、送信したことは記録からも確認できるが、先方が受け取って読んでくれるかどうかは先方次第である。準備しなければならないのは、1,会場、2,指揮者、3,オーケストラ、4,合唱団、5,聴衆を呼ぶための広報、などであった。海外公演などは、多分、オーケストラ事務局、指揮者、日本と現地を結ぶ音楽関係事務所などが動くと思うが私たちは、言わば徒手空拳であった。そのような音楽関係事務所=Agentに頼むことも経費をかけることも考えなかった。いわば手探りで何かの伝手を求めてそこから輪を広げていくという、見方によっては何とも頼りないが人の善意を頼って活動を広げていくというやり方であった。(以下、次号) 
 
《写真、上から順に》 
・東西ドイツ再統一について : 在日ドイツ連邦共和国大使館資料より 
・IASSMD世界会議、分科会 演者はミシガン大学Dr. Marc Gold、 その右が筆者。:1976年8月 米国ワシントンDCにて 
・第3回AFMRアジア精神薄弱会議(当時の表現)会議にて、中央でカメラを構えている人がDr. Tom Mutters。右から2番目が筆者。
 1977年11月、インドのバンガロールにて 
・第5回 AFMRアジア会議、障害者施設見学中の筆者 :1983年11月 インドネシアのジャカルタにて 
・Lebenshilfe 本部にてDr. Tom Muttersを囲んで、北海道精神薄弱者愛護協会(当時の表現)研修団。背中姿は筆者 1989年1月 ドイツのマールブルクにて 
・第10回AFMRアジア会議 中央右が筆者、1991年11月、パキスタンのカラチにて