合唱団が設立された当初の目的は、ベートーヴェンの第九交響曲「歓喜の歌」を歌うことであり、障がいのある人もない人も同じ人間であり、共に集って歌うコンサートを開きたいということであった。そして、その舞台として東京文化会館でこれを行うことを希望された。ところが文化会館の責任ある人にここの舞台でコンサートを開きたいと申し出たところ、この場所はプロの音楽家が演奏する場所であって、素人の方や障害のある方にここを提供することはできないと最初は断られたと聞いている。 しかし、姥山代表は「私たちは重度の障がいのある方などが核となって編成されている素人の合唱団ですが、ベートーヴェンも聴覚に障害があって長いこと苦しみ、その中で第九交響曲を作曲し、歓喜の歌で人々が共に集うことを訴えています。私たちは、誰しも同じ人間であり、その人たちが集って、『Alle Menschen werden Brűeder すべての人たちが兄弟になる』ことを目指しています。私たちの趣旨をわかっていただきたいのです。」と懇願されたところ、会館の代表者は、「よくわかりました。」と会場を使うことを了承されたとのこと。 こうして、1990年4月29日、「ひびけ歓喜の歌コンサート」を開くことができた。その日、会場を埋めた聴衆に厚い感動をもたらし、初めてこの大舞台に立ったメンバーは誰もが言い知れぬ満足感を味わった。このコンサートの模様は、NHKが45分番組として紹介し全国に放映した。私も、団が創設されて2か月後から練習に参加させていただき、夢中で歌詞を覚えることに専念した。学生時代は第二外国語としてドイツ語を選んでいたがそれはほとんど身についておらず、添乗でドイツに行くことも多かったので片言ではあったが、活きたドイツ語をしゃべることには親しんでいた。しかし、An die Freude「歓喜の歌」の歌詞を覚えることは難事であった。毎朝の通勤は誰よりも早く、早朝の地下鉄はがら空き状態であったので格好の練習場でもあった。本番では目を白黒させながら高音もなんとか声を出したが、途中では口(くち)パク状態もしばしば。それでも歌い終わったときは自分も沸き上がる感動を覚えたことを今も忘れない。演奏会終了後、ゆきわりそうに姥山代表を訪ねて、いつかベートーヴェンの生誕地であるドイツのボンで現地の人と一緒に歌う機会が持てるといいですねと話したところ、代表は「文化会館でのコンサートを開くことでエネルギーを使い果たしたこと、それと本来業務のことを考えるといつかできるといいね、と期待はしながらも今の段階ではそれはむつかしい。」と、否定的であった。 私たちの合唱団としては、初めて海外での演奏会として、1993年にドイツのボンへ行ったが、その時の記録として「ボンに響け、歓喜の歌、そして憧れのスイスへ」があり、その中に次のような記録がある。 実は、初めてのコンサートで大きな感動を味わったが、聴衆の声はいろいろあり、それらの感想や批判をじっくり読み直し、メンバーで話し合ってみた。意見のいくつかの例を挙げると、たとえば、「私は、音楽家だから基本的な内容、質で勝負できないものを、わざわざ外国まで持って行って披露しようということ自体、残念というか、批判的にも思わざるを得ません。(音楽家) また、次のような感想もあった。「ゆきわりそう」の「第九」は勿論素人でしょう。障害者であることを十分意識し、チケットなんか売れるレベルではないのに、2千円から3千円というあきれた金額で売りつけている。私だったら、こちらから払って見に来ていただきたいとしかいえない。つまりカルチャーセンターの発表会よりまだレベルが低い出来なのにわざわざ聞きに来てくれる人がたくさんいる。」(わかる福祉より)などの批判もあった。たくさんの様々な見方や批判もあり、それでも合唱団では親たちも含めて幾度も話し合ってみた。そして、まとめとして、次のように結論付けた。