2024.02.05 小野 鎭
一期一会 地球旅 298 中南米での思い出 5
一期一会・地球旅 298 
中南米での思い出 (5) 
ブエノスアイレス ④ 
 
 急ぎホテルへ戻り、団として今後どうすべきかについて協議が行われ、団長から日本の文部省へ国際電話を入れて、今後の方向について相談された。その結果、当初の予定であるチリのサンチャゴ1泊の後ペルーのリマへ向かうことになっているが、サンチャゴを止めて、ここブエノスアイレスにもう一泊すること。その後、リマへ向かい、それ以降は当初のスケジュールに沿って日本へ戻るということになった。団長からそのことを告げられた時、添乗員として答えたのは、安全第一であり、趣旨はよくわかりますがこれは予防的措置であり、任意の旅程変更であること、これに要する追加の旅行経費が発生することが予想され、それは全額旅行者つまり、お客様のご負担となることなど、いくつかの前提条件を主張したことは今もよく覚えている。 
 
 しかも実際の移動は5日後であり、明日は金曜日、そして週末になるため、旅行会社や航空会社の市内カウンターは多分休みとなるので手配や各種作業をするには、かなり不便であると思われること。30名という大人数の航空便と宿泊手配の変更はそれぞれ相手のあることであり、切迫した時間の中でそれを進めることは容易ではないと思う。考えるまでもなく、それまで約30回の添乗経験があったがこれほど大きな旅程変更はかつて経験したことがなかった。さらに、今日まで240数回の添乗をしてきたが、その中でもドイツで航空機に爆弾を積み込まれたという電話があったため、緊急着陸してやむなく一泊して翌日帰国したということがあるが、これはまた別の機会に書かせていただこう。 

今回の場合、内乱が起きるかもしれないため、未然の策を講じることであり、前述のような条件を伝えさせていただいたと思う。すべて了承いただいたかどうかは定かではないが、とにかく時間がないため、早速、下記のようにいくつかの作業を行ったと思う。思うという表現は不確かな言い方であるが、できることからやり始めたのであり、終わってみると次のような作業をできることからやっていったことになる。 
1) ブエノスアイレスでの本来の公的日程(学校訪問等)は完全消化し、1日の延長は視察のまとめと休養に充てる。 
2) ホテルの一泊延長の申し入れ。 
3) ブエノスアイレスからペルーのリマへの当初より一日遅れの便への変更。 
4) 発着地毎の空港/ホテル間の送迎サービスの変更。 
5) 食事や視察等の調整。 
6) 在ブエノスアイレス日本大使館から日本の文部省へ一連の流れを伝えてもらうことと合わせて、チリの日本大使館へは旅程を変更する旨、伝えてもらうこと。 
7) 団長から、日本の文部省へ国際電話を入れて当初の計画を変更することについて了承を得ること。 
8) 併せて、旅行代金の変更が生ずるときは団員負担となることも伝えていただいた。経費変更の場合は、出張内容の変更扱いとなり、多分、出張費の事後変更手続きが行われることになるであろうこと。 
9) 全体の流れを説明し、旅行行程を変更してもらうため、該当航空会社、地上手配会社へ出向いて必要な作業をしてもらうべく、それぞれのオフィスへ出向いて必要な交渉をした。 
10)   全体の流れについて社へ国際電話をして報告し、旅程変更についての了承を得た。 
ブエノスアイレスと日本には、12時間の時差があり、日本とは昼夜が完全に反対になるためそのことも考えながら電話をしたと思う。いつ、連絡したかは、今となっては覚えていない。 
 結論から言えば、ブエノスアイレスのホテルの延泊はOK、サンチャゴのホテル1泊キャンセルは取消料なしでOK、ホテル代全額をブエノスアイレス1泊延泊分に振り替えてもらえることになった。加えて、当初はLANチリ航空とARアルゼンチン航空で移動することになっていたが、1日遅れの便でここからリマへの便ARに全員変更してもらえることになった。これも変更手数料などは不要であった。一つ懸念されたことは、AR便は、依然としてサンチャゴ経由であること。アルゼンチン航空としては、チリでの政情不安に伴う騒乱発生の可能性については、多分、それほど心配していなかったのであろう。もし、サンチャゴで騒乱が発生し、空港閉鎖などが起きた場合は当初から経由しないとか、運航中止などの緊急策がとられたと思うが、実際は杞憂であった。 
 
 以上のように希望通りに旅程変更をすることに成功、しかもそれに要した費用は、通信費や交渉のために走り回った交通費などであり、旅行代金そのものの増額等の問題は起きなかった。今日では、当然、団体運賃や割引運賃を使っているはずであり、そのための変更条件は極めて厳しく、多分、かなりの追加費用が掛かったであろうと思われるし、昔と比べて旅行者が大幅に増えており、30名の旅程変更などは極めてむつかしかったであろう。 
 
 成功した大きな要因の一つに、この時の地上手配会社は、アメリカン・エキスプレス系のオペレーターであり、ブラジルはじめ、アルゼンチン、ペルーなど一括して頼んでいたので各国別の系列会社であったとは思うが全体としての調整は容易であったのであろう。各国別々の会社に依頼していた場合は、この時のような変更はまず不可能に近かったに相違あるまい。何ともおおらかで良き時代であった。加えて、大使館等の現地公官庁の協力と支援、添乗員の厚かましさと押しの強さ(?)も成功要因であったと自負している。 
 
 今となっては、すでにメモも残っておらず、その時はかなり混乱していたので旅行日程を変更したことは明確に覚えており、一日遅れてブエノスアイレスを発ってリマへ向かったことに間違いはなく、何とか善処したことは覚えている。また、携行日程表にはそのとき変更した航空便の便名と発着時間を殴り書きして訂正したことがわかる。 
 
《写真など、上から順に》 
・チリ、サルヴァトーレ・アジェンデを支援する市民団体(1964年・Wikipediaより) 
・学校訪問では、旅程変更の目途が着き、こどもたちとのふれあいを楽しんだ。 (ブエノスアイレスにて、1972年11月6日 撮影) 
・スケジュール変更を書き込んだ日程表(1972年11月、筆者メモ)