2024.02.13 小野 鎭
一期一会 地球旅 299 中南米での思い出 6
 一期一会・地球旅 299 
中南米での思い出 (6) 
 
 週末をはさんでブエノスアイレスで5日間を過ごし、急場しのぎの旅程変更はこの地でもう一泊延長して、都合6日間滞在。そしてサンチャゴには寄らず、ペルーのリマへ向かうことになった。起きるかもしれない危険を避けるための任意の旅程変更であり、今日では、航空運賃はかなりの違約料や変更手数料を請求されるであろうが、この時は追加費用などの請求はなかった。まさに文字通り、天祐とでもいうべきか。そして、宿泊代金はサンチャゴ分をブエノスアイレス延泊代金に振り返ってもらった。これは偶々南米滞在分を同一のランド・オペレーター(地上手配会社)で扱ってもらっていたことよる差し替えによるものであり、怪我の功名と言おうか、何ともラッキーな結果であった。 

 ここでは週末明けの月曜日に予定通り学校訪問等を終え、延泊して生まれた一日は、かなりの時間を費やしてブラジルとアルゼンチンでの教育事情視察の取りまとめと報告書作成へ向けての下準備などが協議された。私は、アルゼンチン航空の市内事務所で30人分の航空券のフライト変更手続き(Endorsement)をしてもらった。カウンタースタッフは、すでに内容を承知していて問題なかったが、なんとラッキーでしたね!(!Es una gran fortuna = It’s a big fortune !)と喜んでくれた。手続き(裏書)をしてもらうのに2時間くらいかかるらしいということで、カウンターに預けて、ラ・ボカ地区に行ってみた。タンゴ発祥の地と言われるかつての小さな港町跡であり、イタリア、スペイン、フランス、ドイツ系などの移民がこの地に移り住み、バンドネオンやギターなどによるメロデイがこのあたりで響いていたという。カミニート(小路)には、鮮やかな色彩の家々やレストラン、バー、タンゴ喫茶などが並び、何となく猥雑な感じがした。中学~高校時代は、吹奏楽部に属していたのでよく演奏したロドリゲスの「ラ・クンパルシータ」が思い出された。一人では、なにやら怖いので早々に引き上げ、一度、ゆっくり見てみたいと思っていた念願のラプラタ川の岸辺に立ってみた。 

 こうして一日遅れの移動は、ブエノスアイレスからサンチャゴを経てリマへ向かった。何とも皮肉な話であるがサンチャゴでの社会不安はかなり沈静化されていたらしい。ここでは機内待機であったが、実はサンチャゴ到着前に大きな出来事があり、これは今も忘れない。 
ブエノスアイレスからサンチャゴまでは、空路2時間少々であるが広いパンパの大平原を越えると次第に下界は茶色の世界へ変わっていき、やがて峩々たる山稜が機の両側に広がり始めていた。世界最長の山並みであるアンデス山脈らしい。そして南米大陸の最高峰アコンカグアはアルゼンチン領内にあるがまもなく国境線であり、サンチャゴへ向かって下降していくのであろう。機内では、スナックが配られ、飲み物などをいただいていたと思う。その頃は、雲が厚くなり機外はほとんど視界らしきものが利かなかった。そして機はガタガタと揺れ始め、まもなくスポーンと抜けたように急激に高度が下がっていった。テーブルの上の飲み物などが宙を飛び、ズボンの上にコーヒーやジュースなどがこぼれた。夢中でひじ掛けにしがみついていたので飛び散ったトレイや食器を片付ける余裕もなかった。どれだけの時間が過ぎたかはわからないが、かなり降下した機はまもなく、落ち着き平静に飛び直していった。パイロットから、タービュランス(気流の乱れなど)に巻き込まれて急速に高度が下がったがもう大丈夫とスペイン語や英語、ポルトガル語などで説明があったと思う。機内ではだれもがほっとしたように顔を見合わせていた。機の右側、指呼の範囲とで言うほどの距離に雪をかぶった三角形の高峰が見えていた。あれが、アコンカグアであろうか? 
 
 それから次第に高度を下げサンチャゴの空港に着陸した。恐怖の数十秒?それとも数分間?は今も覚えている。その後、これ以外にも、乱気流に巻き込まれるとか、落雷を受けてトラブルに巻き込まれたこともあるが、これは別の機会に紹介させていただこう。今日では、航空機の安全運航は昔より格段に良くなっていると思うが、昔は濃霧のため、到着便が遅れて、そのために次の出発便に影響がある、等もよく経験した。 

 もう一つ書きたいことがある。自分がアコンカグア(?)を機から見たときこの山の標高は7035m(日本書院 高等地図 昭和34年・1959年発行)と表示されているが、最近の地図(Britannica Encyclopedia 2013 や最新基本地図 帝国書院、2020年版)では6959mと表示されている。約60年で山の高さが76mも低くなったとは思えないので測量方法による違いではないだろうか。 
 ところで、サンチャゴを発ったAR機は予定通り、ペルーのリマに到着、以後、クスコとインカ帝国時代のマチュピチュの遺跡などを見物。ペルーについては、改めて思い出を書くこととさせていただきたい。 そのあと、パナマを経てロサンゼルスへ至った。パナマには深夜2時に着いたが次の出発便は夕方18時過ぎ。ほとんど一日あったのでパナマ運河を見に行った。当時、日本の海運業界は急速に成長しており、日の丸を船尾に付けた大型の輸送船などが運河の閘門につながれていた。運河に沿って、陸上で船をけん引する機関車は川崎重工のマークがついていたと思う。何やら頼もしい思いをしたことを覚えている。もう一つ、蛇足を加筆させていただくことをお許しいただきたい。パナマ運河は南北アメリカが細長くつながっており、パナマ地峡を掘削して湖などを経由して建設されている長さ82kmあり、世界で最重要な水路の一つであろう。そこで、運河の東側が大西洋、西側が太平洋であるとだれもが思っていることでしょう。ところが、地図を見ると、厳密にいえば、大西洋側(Caribbean Sea, Colon)の方が緯度的には西であり、太平洋側入り口(Pacific Ocean, Panama City)の方が東になっていることに気づいたのは数年前、この地域の地図を丁寧に見ていた時、気づいたことでした。

 
後日譚 
 チリのアジェンデ政権は、その翌年、1973年9月11日にピノチェト将軍を首謀者とするクーデターが起きて、崩壊した。この軍事クーデターには、アメリカ政府及び中央情報局(CIA)が関与したと言われている。2000年9月11日に起きた同日多発テロで多くの人がなくなったことなど悲惨な出来事を「9/11」と略して呼ぶことがあるが、その昔のチリでのアジェンデ政権を崩壊に追い込んだこの事件は、もう一つの9/11と呼ばれることがある。他に、もう一つ。南半球のチリは今が真夏、先日、サンチャゴ近くの港町バルパライソ付近で起きた森林火災では、たくさんの方が亡くなり、行方不明も多数とか。亡くなった方のご冥福を祈り、被災された方々へお見舞い申し上げます。 (以下、次号) 
 
《資料》 
・サルヴァドール・アジェンデ》 世界史の窓、Wikipedia、Reutersなどから 
《写真 上から順に》 
・  ラプラタ河畔にて : 写真そのものがセピア色になっているが、川の流れはもともとセピア色? (1972年11月7日、中央は筆者) 
・  南米の最高峰、アコンカグア山。(Wikipediaより) 
・  アコンカグア山一帯(高等地図より、日本書院、1959年発行、メモは筆者書き込み) 
・  Mt. Aconcagua (Britannica Encyclopedia 2013年版) 
・  Panama Canal (Britannica Encyclopedia  Definition, History, Location, Map, Treaty)