2024.06.04 小野 鎭
一期一会 地球旅 314 ビルマ(ミャンマー)の思い出 2
 一期一会・地球旅 314 
ビルマ(ミャンマー)の思い出(2)
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 私たちがおとずれた半世紀前はビルマ(現ミャンマー)であり、首都はラングーン (現ヤンゴン)であった。2006年には、ヤンゴンから北へ300kmのところに新首都ネピドーを建設して遷都したが、輸出入など経済活動の中心は今もヤンゴン。ネピドーにはレストランは20か所しかなく、駐在員は自炊を強いられる。そのため、在ミャンマー日本大使館や商社など駐在員の多くはヤンゴンから移転せずにいるとのこと。 
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 この時の「海外教育事情視察報告書」が手元に残っておりそれを見ると団員各氏は、海外視察から少しでも多くを学ぼうとされた姿勢がうかがえる。その中にはビルマでの視察の様子もつぶさに書かれている。それによると、この国には、社会主義体制の独立国家建設を目指して大きな動きがあった。革命政府は、教育政策に大きな力を入れて識字運動を最高重要教育課題とし、1966年に識字運動のプロジェクトを開始した。この運動は成人を対象とする学校外の教育プロジェクトで1980年には全国民を文盲から解放するという壮大な計画であった。この運動の教師陣としては、大学、カレッジ、教員養成カレッジ、高等学校の学生が総動員されている。これらの学生に対して,教育省副大臣は、「報酬を与えることはできない。しかし、名誉を与える。」と激励していた。我々がこの国を訪れたころ、ある地域では、1969~72年までに地域住民の96.5%が識字力を獲得したと報じられていた。文盲撲滅のためのこのようなビルマ政府の継続的努力は、この時代、国際的にも高く評価されていた。このような国際的評価には、国際機関や友好国からの援助の手が延ばされるようになり、日本も支援していたとある。 
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 ここで訪問したラングーン市内の学校での教室風景は、あれから半世紀が過ぎるが今も脳裏に焼き付いている。中学校であったが、幼児級を含めた小学校4年、中学校2年の併設校となっており、児童・生徒数2091名の大規模であった。生徒たちは、文字通り、すし詰め状態で教室に入っており、100名くらいの児童が前半分と後ろ半分が二人の教師からそれぞれ別々の授業を受けていた。一人用の机に二名ずつの児童が座り、このような机を2台互いに付けあって並べているので二人用の机を4人の児童が使用しているように見えた。800人定員の学校に2,000人以上が入っているためという苦肉の策であった。 
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 この時、これと似たような光景を思い出したのは、自分の幼少期のころのことである。自分は未だ小学校には上がっていなかったが、4つ違いの姉に付いて小学校に行ったことがある。戦後間もなくであり、午前と午後のクラスがあったと思う。建物が傷んでいたため、生徒数が多くて教室が足りなかったのか理由はわからないが児童は、教室の中にすし詰めで座り、自分は教室の後ろの方に立って見ていたとおもう。各クラスは50名くらいの生徒がいたのではないだろうか。その日は、女児が列を作って次々に頭に白い粉を吹きかけられていた。白い粉は独特の匂いがあるDDT(ディディティ)であり、虱(しらみ)退治であったと聞いている。自分が小学校に入学したのはその1年くらい後、日本は終戦後の混乱期で国民学校から新制の学校制度が始まったころであった。 
 
 さて、ラングーンの小・中学校で学んでいた児童・生徒たちは、今、年齢は60~65歳くらいであろうか。であるとすれば、彼らは社会主義体制から軍政、民主化の時代、そしてまた軍政下のこの国で過ごしていることになる。ある人は、国や町を動かして来たり、軍人となって国家を守ったり、揺り動かしたり、一方では、民主化のリーダーとして活動したり、拘束された人などもいるかも? そんな中で、日本に難民として入ってきた人もいるかもしれない。 
 
 日本とミャンマーの関係について、国際情勢マンスリーレポートに興味深い報告がある。以下、その一部分を紹介しておきたい。「日本とミャンマーは歴史的に長く、しかも良好な関係が気づかれてきた。アウン・サン・スー・チー女史の父であるアウン・サン将軍などミャンマー独立の英雄たちは旧日本軍から訓練を受けた経緯がある。近年も日本政府はODAによる『経済協力』に加え、『人的交流』や市場経済の促進支援や投資促進などの『経済関係強化』それに『文化交流』の4分野で協力を深化させていく方針を打ち出してきた。ヤンゴン市郊外のティラワ河川後背地周辺の開発など多数の日本企業が進出してきた。そうした中で2021年の軍によるクーデターが勃発、欧米諸国は経済制裁措置を再開したが日本政府は国際社会の懸念を伝え、冷静な対応を呼びかける対話路線を維持している。民主派勢力はそのような日本の姿勢を曖昧だと批判し、ODAの完全停止や経済制裁を求めている。しかし、日本が経済的な支援や協力を取りやめれば、ミャンマー経済に与える影響は甚大であり、軍が中国への一層の接近と依存度合いを深めてしまう、と日本政府は危惧している。このままでは、ミャンマーは、益々世界から孤立し、その間隙を縫って中国がさらにミャンマーに進出していくばかりである。そこで、考えられる二つのポイント、一つはミャンマーが中国に取り込まれないようにすること、二つは、ミャンマーの軍部と民主派の双方が間に横たわる壁を乗り越え、相手に歩み寄る努力を為すことだ。」とある。平和政策研究所 上席研究員 西川佳秀氏 
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 東京・高田馬場には、日本最大のビルマ人コミュニティ(リトル・ヤンゴン)が存在し、ビルマ料理店が並び、ビルマ語/日本語学校なども集中している。ただし、ひところに比べるとこれらの料理店は一見したところ数が減っており、コロナの影響で閉店したのか、ミャンマー人そのものが減っているのだろうか? 今から16~17年前、専門学校で観光や世界遺産について講じていたころ、ミャンマーからの留学生がおり、旅行業について学んでいた。将来は、国に戻ってミャンマーを世界に紹介したいと言っていた。日本で学び終えた学生たちは、本国に戻って観光業などで活躍しているだろうか。この国には現在2つの世界遺産があり、その一つがバガン。ミャンマー中部にあるこの町には、3,000以上の仏塔が立ち並び世界三大仏教遺跡の一つとなっている。バガンは、仏教芸術と建築が他に例をみないほど数多く立ち並ぶ聖なる景観であり、それは上座部仏教の数世紀にわたる功徳を得るための文化的伝統を示しているという。また、仏教が政治をコントロールするための装置となったことも表しているという。 
私の授業で学んでいた彼女も、この文化遺産やヤンゴン市内にある有名なシュヴェダゴン・パゴダなどを紹介しているのであればいいのだが・・・(以下、次号) 
 
《資料》 
・日本とミャンマーの関係&日本の採るべき対ミャンマー政策 一般社団法人 平和政策研究所 上級研究員 西川佳秀氏(一部分) 国際情勢マンスリーレポート 2024年1月25日 
・バガン : 世界遺産アカデミー発行 すべてがわかる世界遺産1500 中 
《写真》上から順に 
・海外教育事情視察報告書 昭和48年度 文部省派遣教員等海外教育事情視察団 
・ビルマの識字運動資金源として売られていた絵葉書 同上報告書より 
・ラングーン市内 州立第一中学校の教室風景 同上報告書より 
・戦後の日本の小学校などでのDDT消毒風景 楽天ブログより 
・東京・高田馬場のミャンマー料理店風景 2024年4月20日 筆者撮影 
・バガン : Bagan  UNESCO World Heritage   Myanmar in the List