2024.06.24 小野 鎭
一期一会 地球旅 317 オーストラリアの思い出(2)メルボルン2 Aussie English
一期一会・地球旅 317 
オーストラリアの思い出(2) メルボルン② Aussie English 
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 前回、メルボルンでのハエについて、ドライバーから聞いた話を書いたが、これについて書き加えたい。バスのドライバーの説明は、これを一度ですんなり理解したわけではない。すでに30回ほどの添乗経験があったが、その多くは何らかの専門視察や研修などのプログラムを主としていた。各地では、通訳を雇用していたので専門分野についての説明は自分もそれをしっかり聴いていた。文部省の海外教育事情視察団では、当然のことながら、学校見学などもあったのでたびたび通訳業務を受け持つことがあった。しかしながら、自分がまだまだ英会話能力が不十分であったことが理由であるが、欧米で比較的聞きなれていた英語の発音とちがって、メルボルン、つまり、オーストラリアで聞いた英語(Aussie English)の発音は聞き取れないことが多かった。 
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 Aussie English(オージー英語)の特徴は日本を発つ前に先輩社員からもいくつかの例を聞いていたが、なるほど、苦労した。よく言われるのが、G’day mate (グッダイ マイト)、Today(トゥダイ)、Paper(ポイパー)などもあるらしい。エジンバラなどのスコットランドで聞いていたScottishのR(アール)のように、かなり巻き舌調の発音も聞いたような気がする。それでも、何とか聴き取ろうと耳を傾けているうちに少しずつ聞き取れるようになっていった。そして、80年代になると児童福祉や障がい関係で訪れているうちに、通訳までやるようになっていったということは、Aussie Englishであっても自分なりに聞き慣れていったのかもしれない。 
 
 ‘74年のときの教育関係行政機関などの訪問は、渉外担当の先生方が交替で通訳業務を果たされたが学校見学等はいくつかの班に分かれて教室などを回ることが多かった。72,73年とすでに幾度か教育事情視察団で北米や欧州、インドなどで学校訪問を経験しており、全体の要領を次第に飲み込んでいたので毎回の視察団の事前説明会では経験談などを聞かせてほしいとたのまれるなど重宝がられることも多かった。班ごとの見学ではその都度、冷や汗をかきながら、特にインドやフランスで聞く英語は苦労したが、通訳担当としても、それなりに責任を果たすようになっていった。 
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 とは言いながら、メルボルンではAussie Englishで、これを幾度か聞き直しながら、授業風景やTea Timeなどの風景についての説明を受けた。苦労したことは、もう一つある。先方の案内は所謂、「英文和訳」であるが、これを受けてこちら側の団員各位が質問されるときは「和文英訳」になる。日本的なものの考え方の特徴は、具体的な数字や回数、平均どのくらいか、等といった質問も多い。反対に欧米などでは抽象的な答え方も多く、平均どのくらいなどといった数的な答えは少ないことが多い。日本のようにおおむね単一民族国家であれば、「平均・・」という表現も多いと思うが、複合民族からなる国であって、連邦国家などでは、州や地域の成り立ちが歴史的にも、社会的にも複雑で国内であっても州や地域ごとに法体系も違うことがある。従って、容易には「平均・・」という表現はむつかしいのであろう。それを理解するには全体的な概念を通訳者である自分が掴んでおかなければ説明内容を理解できず、頭の中がボウっとしてくることも多い。その都度、頭をかしげながら、幾度か聞き直さなければならないことも多かった。 
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 先方の説明担当者は、説明しているうちにこちらの理解度合いや英語会話能力を忖度して、あまりむつかしい言葉や表現をせずに、わかりやすく説明してくださる人もあった。一方では、そういうことにはお構いなく、機関銃のようにしゃべり続ける人もある。そんなときは、「すみませんが途中でちょっと間を空けてください」と申し出る要領もつかむように図々しくなっていった。全体説明に続いて、グループに分かれての見学は午前、午後、1時間半から2時間くらいが多かったが、これらのプログラムが終わって夕方ホテルに戻ると、ベッドの上にぐったり伸びることもよくあった。ホテルは、中心街を少し離れたヤラ川近くにあったので都心より静かであったが、食事の場ということから言えば少々不便であった。そんな経験を重ねながら、オーストラリアでの滞在と、少しずつ耳が慣れてきたのであろうかAussie Englishも聞き取れるようになり、メルボルンでの滞在を終えてタスマニアのホバートへ向かった。 
 
 タスマニア州(島全体が一つの行政上の州となっている)でのことについては改めて書くとして、メルボルンについてはもう少し書きたい。一つは、児童養護関係の研修、もう一つは重度障がいのある方々を主とするグループである。それぞれのグループが主としてメルボルンに滞在、そこで1週間くらいのプログラムであったのでなおのこと印象が深く、よく覚えている。(以下、次号) 
 
《写真、上から順に》 
・ドライバー氏のAussie Englishを聴き取ろうと努めた! メルボルン空港にて、但し、これは、1979年2月。全社協 保育事情視察団の添乗で2度目の訪豪時のもの。 
・St. John’s Homes for Boys and Girls にて 左端が筆者 : 児童福祉海外研修 1981年11月 
・メルボルンにて学校見学の様子 : 海外教育事情視察団 1974年2月 
・メルボルン郊外 ヤラ川のほとり : 同上 1974年2月