2024.07.22
あ・える倶楽部
一期一会 地球旅 321 オーストラリアの思い出(6)メルボルン6 ゆきわりそうの旅
一期一会・地球旅 321
オーストラリアの思い出(6) メルボルン⑥ ゆきわりそうの旅
メルボルンには、いくつかの思い出があることを書いてきた。一つは、児童養護に関する海外研修、1981年に続いて85年にも訪れており、特に前者は1週間滞在して多方面からのプログラムが組まれ、講義と見学など密度の濃いものであり、そのほとんどを通じて通訳も担当した。夕方には心身ともにへとへと状態であったが、自分なりに何とかやり終えたことで自信を持つことができた思いであった。その陰には、これをリードしてくださったSt. John’s Homes for Boys and Girlsの総合施設長イアン・G・エリス師Rev‘d Ian G. Ellisの力添えが大きい。しかも、彼の存在を経てお世話したいくつかの旅行がその後の旅行業人生に大きく影響していくキッカケとなったと言ってもいいだろう。
そのころ、ある方の紹介で東京・池袋にある福祉専門学校の副校長のT先生を訪ねた。この学校では、米国へ海外研修を実施されており、その旅行業務を担当させていただきたいという願いがあった。ところが、T先生は、その研修旅行ではなく、重度障害のある人たちを海外に連れていきたいと仰っている方があり、その方への紹介をいただいた。1987年9月のある日、池袋から西武池袋線で二つ目の東長崎駅から徒歩数分の所にある地域福祉研究会ゆきわりそうの代表姥山寛代氏を訪ねた。2階建てアパート風の建物で、入り口には「ケア付きアパートゆきわりそう」と札が掛けてあった。脳性麻痺や様々な肢体が不自由な方、知的障害のある若い人たちや、視覚障害のあるお年寄りなど数名がスタッフの介助や支援を受けながら、ゲームや運動、掃除、食事の準備をしたり、様々な活動が見られた。彼らは、通所で日中を過ごすとか、週末もここで過ごしている人もあった。
姥山代表は、かつて地域の病院で医療ソーシャルワーカー(MSW)をしておられたが、病院の患者やその家族などには重い障害をお持ちの方などがおられ、日々の生活や通学、緊急時や余暇の過ごし方などで様々な難問を抱えておられる人もあり、そのような相談に乗るとか、問題解決に臨んでこられたそうである。そして、そのような方々に対して、様々な問題解決のため、本格的に取り組むため、その人たちが一時的に日中あるいは週末を過ごすとか、家族が何らかの緊急事態に陥ったときに対応するための場所として、ケア付き短期アパートを開設されたのであった。私が訪れたときよりも、2か月前の1987年7月にこの施設が開設され、まだ、始まって2か月、いわば開設後ほやほやの時期であった。
姥山さんは、かつて研修でオーストラリアに行かれ、そこで展開されていた障害児関係への地域福祉プログラムなどに興味を覚えられ、そのような仕組みを日本にも作ることで、地域の障害者やその家族にとっても福音をもたらすことができるに違いないと思われたという。姥山さんは、MSWのころ、多くの仲間たちと協働し、国鉄の列車を借り切って障害児やお年寄り、家族などを乗せて楽しい一日を過ごす「ひまわり号」を走らせる運動をしておられたとのこと。ゆきわりそうを開設して、定期的あるいは不定期に利用される人たちが増えてくるにつれて、日々のプログラムとは別にこの利用者さんやその家族などを海外旅行に連れていき、列車の旅や自然を楽しんでいただけるようなプログラムを組みたいと考えておられた。
80年代は、高度成長経済下で大きく発展した日本にも海外旅行が盛んになる時代が訪れていたが、しかし、重度の障がいのある方やその家族などはそのような旅行には容易に行ける環境はまだ整っていなかった。ゆきわりそうの旅行のことは、昨年12月にトラベルヘルパーマガジンのカナダの思い出の中で番外編としても書いているが、今回はその発端について書いてみたい。
初めて会った姥山さんであったが、もう何年も前からの知己であるかのように、私にご自分の活動や願いを話してくださった。彼女を紹介してくださった福祉専門学校のT先生が、私のこれまでの実績や特長などを姥山さんに話しておかれたのであろう。医療や福祉関係など多数の専門家や自治体など行政の人たちを多数海外研修や視察などにご案内していた自分は、これらの方々が対象としておられた障がい者の方々の旅行については、興味はあったし、海外で訪れた施設などでそこの利用者から夏休みなどにはバカンスを楽しみに自分たちも行っているし、外国旅行もしているなどと聞いたこともあったので日本でもそうなるといいな、とは思っていたが直接的にそれへ向けて動くことなどはまだほとんどやっていなかった。
事実、当時はまだ重度の障がいのある方々の海外旅行などはまだ普及しておらず、それらの方々が単独で出かけるとか、あるいは複数で視察に出かけられるなどがあったと思う。自分自身も1968年のテルアビブ・パラリンピック(ストークマンデビル競技会=国際身体障害者スポーツ大会)への選手団の派遣をお手伝いしたことはあったが、自費でお出かけになる旅行としては、わずかに、視覚障害のある方々のグループがハワイにおいでになるのをお世話したくらいであった。
80年代後半であっても、言うところの「障害者旅行」はまだ緒に就いたころであったと思う。姥山さんの熱意溢れる話を聞いているうちにその夢を実現されるお手伝いをぜひやらせていただきたい。そう思いながらもどこから手を付けようかと夢想しながら一つずつ挑戦していけば絶対にできるはずと、自らに言い聞かせていた。そして直ぐに頭に浮かんだのがメルボルンのエリス師であった。セント・ジョンズ・ホームズの児童養護のための幅広い事業の一つにインターチェンジ(Interchange)というプログラムがあった。重度の障がい児を持つ親が、一時的な休息や自由な時間が得られるように週末や休日に障害児を委託できるプログラムである。ボランティア家族を募ってその家族に専門的な指導を行い、このサービスを普及させていた。そのプログラムがあるということでエリス師は障害児へのサービスについて理解があり、多分、何らかの形で協力していただけるのではないかと思ったのである。(以下、次号)
《写真、上から順に》
・イアン・G・エリス師(1985年度 資生堂児童福祉海外研修団 真ん中半身が筆者):1985年3月4日撮影
・地域福祉研究会 ゆきわりそう開設 1987年7月20日 : ノーマライゼーションを目指して 姥山寛代編著 中央法規より
・第1回ひまわり号の出発 1981年夏: 私たちは心で歌う目で歌う合唱団 歓喜の歌 ミネルヴァ書房より。
・ゆきわりそう カナディアンロッキーの旅(左端、背中姿が筆者)1990年9月
・1968年テルアビブ・パラリンピック(ストークマンデビル競技大会=国際身体障害者スポーツ大会)テルアビブにて。 筆者も、この選手団のうち、数名をお一人ずつ背負ってAF機のタラップを上り、機内へご案内した。 (1968年9月) 障害保健福祉研究情報システムより