2024.08.26
小野 鎭
一期一会 地球旅 325 オーストラリアの思い出(10)メルボルン10 ゆきわりそうの旅(続き)
一期一会・地球旅 325
オーストラリアの思い出(10)メルボルン⑩ ゆきわりそうの旅(続き)
ゆきわりそうのオーストラリアへの旅は、皆さんそれぞれに楽しい思い出をいっぱいお持ち帰りいただくことができ、安全安心を第一としたこの旅行を終えた。この旅行の取扱業務成功の陰には、セント・ジョンズ・ホームズの施設長イアン・G・エリス師とその片腕であるF・ビア氏の絶大な支援があった。お二人の協力なしにはこの旅行は実現できなかったであろう。もう一つ、忘れられない大きな助けはカンタス航空から英断を示していただけたことである。今年、2024年いただいた年賀状の一葉に「長いおつきあいになりましたね。」と添え書きがあった。この航空会社の営業マンであったS氏である。1988年に初めて重度障がいがあり、車いすを使用される方15~20名とその家族など総勢50~60名をオーストラリアへお乗せいただきたい、と相談を持ち掛けたところ積極的にお手伝いしましょう、と協力を約束してくれた人であった。
当時、すでに「バリアフリー」ということばは障がい者関係の専門家や福祉関係者の間では使われるようになっていたが、まだ一般的ではなく、旅行業界では、「障害者旅行」と呼ばれていたし、普通のお客様より手がかかるということで敬遠する会社もあった。私が勤めていた会社では、すでに1968年にパラリンピック(国際ストークマンデビル大会 ⇒ 国際身体障害者スポーツ大会 ⇒ 1964年東京での大会の際にパラリンピックと呼ばれるようになったと聞く)への出場選手や応援団の旅行業務のお取り扱いをしていた。私自身もお客様を背負ってタラップを上り、フランス航空の機内へお連れしたのが身体障害のある方の旅行に関わった最初の経験であった。その後、障がい者施設の職員や福祉関係の専門家の研修や視察、国際会議出席などに数多くかかわってきた。しかし、その対象となる方、すなわち、「当事者」であるとか「利用者の方」の旅行そのものはあまり経験していなかった。ゆきわりそうの方々の旅行をお取り扱いしたことが大きな端緒となって以後、「障害者旅行」に深くかかわるようになり、やがて「バリアフリー旅行」に積極的に力を入れるようになり、2000年代に入って「ユニバーサル・ツーリズム」の普及を目指すようになっていった。
オーストラリア旅行に参加された方々が旅行は楽しかったなど様々感想が寄せられていた。そして、現地では重度の障がいのある人が週末にボランティア家庭で過ごし、その間、家族は日ごろの介護疲れを癒すとか、普段は他の兄弟姉妹に手が届かないこともあり、それを補えるプログラムがある、グループホームなどもある、などと聞いてもう少し詳しく見学したい、という声もあったとのこと、さらに、今回は行けなかったけれど、次回はぜひ連れて行ってほしい、等の声がゆきわりそうには届いていたとのこと。そこで、もう一度、メルボルンへの旅行を計画されることになった。そして、現地の受け入れとして、もう一度、エリス師にお願いすることになった。航空会社はもちろんQFにお願いした。現地の宿泊先としてニューマンカレッジの学生寮の使い勝手についても要領がわかっていたのでもっと効率的に使える心構えもできていた。
それから1年後の1989年12月に、今度は前回よりも2日間長く旅行期間を10日間として、第2回目のゆきわりそうオーストラリア旅行が行われた。プログラムの中には、インターチェンジ・プログラムや地域の公立学校訪問なども含まれて、視察色の濃い部分もあった。列車の旅は、エリス師の勧めもあって、今回はメルボルンから小一時間で行けるダンデノン丘陵を走っている鉄道パッフィング・ビリー号に乗ることになった。ふもとのベルグレイブから終点のレイクサイドまで約1時間、SLでの遊覧鉄道で観光客にも人気のアトラクションとなっているらしい。前回は、広大な牧場や草原、畑地が車窓に広がっていたが、今回は、美しい森の中をSLでのんびり走っていく、いわば箱根の登山鉄道のような面白みが期待できそうであった。レイクサイド一帯は公園になっており、のんびりピクニックを楽しむという計画となった。
また、プログラムの中には、インターチェンジ・プログラムや地域の公立学校訪問なども含まれて、視察色の濃い部分もあったが、一方では、文化交流も予定された。ゆきわりそうでは、和太鼓教室や大正琴を学ぶグループもあり、今回は、お琴の指導をしておられるN師匠の参加もあり、現地でお琴の演奏を披露して、セントジョンズの関係者にも鑑賞していただこうとの趣向であった。
このように、2回目のオーストラリア旅行は、前回よりもさらに密度の濃いものとなり、筆者にとってもその後の人生にもう一つ、大きく影響する出来事があった。ダンデノン公園で楽しんでいただいて、帰りのPuffing Billyの車中では、車窓風景を楽しむと同時に、みんなで歌を歌ったりしながらふもとのベルグレイブ駅へ向かっていた。しばらくすると、誰いうともなしに合唱が始まり、ベートーヴェンの第九「歓喜の歌」、それもドイツ語の歌詞でしかもハモリながら数名のメンバーが歌い出した。列車の中であり、他のお客さんもあり、大声でコンサートというわけにはいかなかったが、合唱はなかなかのものであった。そして、歌い終わるとメンバーだけでなく、一般のお客さんからも大きな拍手があった。自分も、年末には、第九のコンサートをラジオで聞いたこともあったし、当時、西ドイツの首都ボンでベートーヴェンの生家を訪ねたこともあったので第九への関心はあった。とはいえ、自分自身が合唱に加わってみたい、というほどの深い思いまではなかった。しかし、この車中で皆さんの合唱を聞いたときは、何やら心に残るものがあった。
こうして、第2回目のオーストラリア旅行は前回にもまして楽しく、しかも学びの多い10日間を終えることができた。旅行を終えて、再度、ゆきわりそうに姥山代表を訪ね、合唱団のことについて詳しくうかがったところ、「私たちは心で歌う目で歌う合唱団」がこの年、1989年夏に生まれ、第九「歓喜の歌」について学び、練習しているとのことだった。次号でそのことについて書かせていただきたい。(以下、次号)
《資料》
◎パラリンピックの歴史 : 日本パラリンピック委員会
https://www.parasports.or.jp/paralympic/what/history.html
《写真、上から順に》
・エリス師に感謝 中央:Ian. G. Ellis師、右 筆者。 1989年12月 撮影
・バリアフリー旅行術 テキスト(駿台トラベル&ホテル専門学校 学科長時代のころ 共著 2004~2008年)
・インターチェンジについて学ぶ 1989年12月 筆者撮影
・第2回ゆきわりそう メルボルンへの旅 メルボルン大学ニューマンカレッジにて後列左から2番目 エリス師、左端 筆者 1989年12月
・お琴の演奏 セント・ジョンズ・ホームズにて、ゆきわりそうお琴教室 新山講師 1899年 筆者撮影
・ダンデノン丘陵 パッフィング・ビリー号 Visit Melbourne資料より