2024.09.02 小野 鎭
一期一会 地球旅 326 オーストラリアの思い出(11)メルボルン11 第九への道
一期一会・地球旅 326 
オーストラリアの思い出(11)メルボルン⑪ 第九への道 
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2回目のオーストラリア旅行を終えて、ゆきわりそうに姥山代表を訪ね、メルボルンのダンデノン丘陵の遊覧列車の車中で聴いた第九の『歓喜の歌』について詳しくうかがった。そして、この年、1989年の夏ごろ、「私たちは心で歌う目で歌う合唱団」が誕生していたことを知った。この長い名前の合唱団は、ゆきわりそうの利用者や家族、スタッフ、そして、興味を覚えて加わったメンバーなどで構成されていて、が1990年4月29日、上野の東京文化会館の舞台に立った。この時のメンバーの声がPhoto Document「ひびけ歓喜の歌」として出されており、この合唱活動へ向けての発端について姥山さんが書いておられる。 
 
「第九歌えるかな、歌おうか」とつぶやくようにいってみる。スタッフ一同、意味がわからん、というふうに返事をしない。そこで、すこしはっきりと「ねえ、障害者を中心として第九歌ってみない」といってみる。ファーンという感じの目で私をみるだけで返事がない。 
そうだろうな、私だってはっきり意味がわからないんだからと思う。 
しかし、一度口にしてみるとパズルのように思考が組み立っていく。なぜ、第九を歌おうと思ったのだろう。 
 
歓喜という名に惹かれたのだ。私は過去、幾度も歓喜を味わった。歓喜が全身をつつむ時はいつも苦悩を乗りこえ克服した時だった。その幸福感の絶頂は生命の実感そのものであった。「私たちは心で歌う目で歌う合唱団」と名付けたのは、声が出ない、言葉がいえない障害者が、心は生命に満ち満ちていて歌っているのだということを表現したものである。 
 
誰でも人生のうちに、一度や二度はそんな歓喜を味わうことがある。 
障害者の場合はどうか。狭い環境の中で何度歓喜を自分のものにすることがあるだろうか。その機会を作ることで、何とか一歩道が拓けないだろうか。聴覚の障害をもったベートーヴェンの第九は障害者により理解され共感されるのではないだろうか。《歓喜の歌》の題名に惹かれ、第九もポピュラーになったと思った私の何気ないつぶやきは今、現実のものとなり、重度の障害者約60名の参加を得て総勢250名の合唱団が、東京文化会館のステージに立つために練習を続けている。 
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 それから数日して、ゆきわりそう恒例のミュージック・パーティーが開かれた。東京・目白の椿山荘であった。姥山さんはよく言っておられる。重い障がいがあってもふつうに暮らし、時にはおいしい料理や音楽を楽しむ機会があっていいはずだ。普段はジャージとスニーカーの日々であるがこの日はお洒落してアクセサリーを身に着け、メークアップして楽しさいっぱいの様子がうかがえた。プロのミュージシャンなどの演奏に続いて、合唱団のメンバーが舞台に上がり、「歓喜の歌」が披露された。この時はピアノによる伴奏であったが、会場に響き渡る歌声に魂を揺さぶられるような感動を覚えた。たまたま同じテーブルに座っていた恰幅の良い青年K氏が芸大の声楽科で学んでおられプロを目指す人物であった。その彼もステージに上がりテノールのパートで応援した。合唱団にはそれぞれのパートのプロたちが加わってヴォイス・トレーニングなども受け持っているとのことであった。 
 
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 合唱団編成の意図を聞いていたことと、この日、会場で味わった感動が忘れられず、自分もぜひ加えていただきたいとお願いしたのは年が明けてからであった。幸い、入団は認めていただけたが、それからが苦労であった。コンサートまでは3か月少々、多くのメンバーとは4か月以上のハンデがあった。ベートーヴェンと第九について学ぶこと、歌詞の意味を理解し、覚えることが最大の課題であった。学生時代に第2外語でドイツ語を少しかじっていたし、添乗でドイツにはいく度も行き、病院や施設では簡単な通訳のまねごとまでやる厚かましさであったが、歓喜の歌An die Freudeはとにかく難しかった。出勤はいつも早朝を旨としていたのでまだがら空きの地下鉄の車内でテープを聴き、ドイツ語を覚える格好の場であった。合唱の練習は、毎日曜日の午後、2時間半、北区にある養護学校の講堂と教室、自分はバスの一員として加えてもらった。バスとはいっても曲の中には高い音があり、腹式呼吸で、と教えられ、目を白黒させてひたすら声を出した。 
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 こうして、何とかみんなに伍していけるようになり、ついに1990年4月29日、大勢に加わって東京文化会館のステージに立つことができた。メルボルンのダンデノン丘陵を走るPuffing Billyの列車の中で聴いたあの「歓喜の歌」が本物になっていた。250人の大合唱は、オーケストラの演奏と共に会場を埋めた聴衆に大きな感動を呼び起こしたと、NHK始めテレビや新聞でも報じられるなど大きな話題となった。そして、この時の合唱参加者それぞれが味わった感動が、前述したPhoto Document 「ひびけ歓喜の歌」に綴られている。 
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 メルボルンのセント・ジョンズ・ホームズのエリス師との出会いと彼から頂いた大きな協力がやがて重度障がいのある方々の旅行につながっていった。さらに「私たちは心で歌う目で歌う合唱団」へと続き、大きな輪が広がっていった。それは、ベートーヴェンの生誕地西ドイツのボンで現地市民とともに「歓喜の歌」を合唱するという大きな動きにつながっていったし、さらにはニュージーランド、あるいはニューヨークのカーネギーホールや国連、韓国での日韓友好のコンサートを開くなど、その動きは世界へ広がっていった。これらのことは、すでに私の「一期一会・地球旅」でも書いているが合唱団は35年過ぎた今も活動を続けており、初期からのメンバーも数名、頑張っている。 
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 そのうちの一人が原田安章君、母親の京子さんと親子で練習に参加し、ドイツ語の歌詞を発音だけでなく歌詞の文言を一語ずつ学び、ベートーヴェンが「歓喜の歌」を通して訴えていることをより深く理解しようと努めていた。脳性まひのある彼は車いすを使っての生活であるが、彼は言っている。「障害はあるけれど不幸ではない、でも、不自由なのです」と。歓喜の歌の合唱は、通常はソプラノ、アルト、テノールそしてバスの4グループで構成されることが多いが、私たちの合唱団には、「第五パート」があり、5つのグループから成っている。重い障がいのあるメンバーにとっては、高音部分が発声しにくいとか、早口では歌いにくいなどのハンデを感じている人も多い。そこで、もっと歌いやすく第五パートが編まれ、これにより、彼らも他の4パートに伍していけるようにと編曲されている。合唱団初代の指導者であった故新田光信氏が全力を傾けて考案されたものである。1997年、ゆきわりそうの創立10周年を記念して、第五パートを「第九」第4楽章に挿入された楽譜が発刊され、これが現在も私たち合唱団愛用の楽譜となっている。原田君も今では、中年のおじさんであるが合唱団最古参メンバーの一人として、元気に歌い続けている。 
 
《資料》 
・ひびけ歓喜の歌 姥山寛代/私たちは心で歌う目で歌う合唱団編著 ミネルヴァ書房 

《写真 上から順に》 いずれもミネルヴァ書房 「ひびけ歓喜の歌」より転載 
・ひびけ歓喜の歌 姥山寛代/私たちは心で歌う目で歌う合唱団編著 ミネルヴァ書房1990年7月 発刊 
・私たちは心で歌う目で歌う合唱団 合唱練習テキスト 
・合唱団に親しむために練習の合間に餅つき大会に参加した筆者 1989年12月 
・私たちは心で歌う目で歌う合唱団 第九コンサート 東京文化会館 1990年4月29日 指揮 円光寺雅彦 演奏 東京フィルハーモニー交響楽団 
・コンサート会場へ向かう原田安章君と母親原田京子さん 
・新田光信氏 私たちは心で歌う目で歌う合唱団 初代指導者&第五パート生みの親