2024.10.07 小野 鎭
一期一会 地球旅 331  飛び入り編 高校同期生との旅行
一期一会・地球旅 331 
飛び入り編 高校同期生との旅行 

 南半球への旅行ということで、今年前半は、中南米。6月から後半はオーストラリア、それもメルボルン、次いでタスマニアへの思い出について書いている。実は、初めての豪州1974年の時は、タスマニアの後、シドニーを経てニュージーランドに至った。現業中にこの国は前後6回訪れている。主として北島と南島から成っているが両方の島でそれぞれ忘れられない思い出があり、それらについて書いてみたい。ただし、それは次からとして、その前に飛び入りとして別のことを書かせていただきたい。 
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 本年、5月下旬、数年ぶりに帰省、福岡県飯塚市が故郷。母の13回忌には妹たち家族などが集ってくれた。久しぶりに故郷の山や川を眺め、ボタ山は以前よりさらに木々が繁っており、今や人工の山ではなく、すっかり普通の緑の山のようになっている。翌日、高校時代の同期生8名が集ってくれ、楽しいひと時を過ごした。ふるさと在住の有松兄は同期会の代表であり、仲間たちの信望も厚く、頼りがいのある人物。私が帰省することを伝えておいたところ、かつての旅行好き8名が集まってくれることになったという。 
 
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 私たちが福岡県立嘉穂高等学校を卒業したのは1960年。私は、64年、東京オリンピックが開催された年、旅行会社に入った。この年4月1日、海外旅行が自由化され、高度経済社会が勢いを増している頃だった。4年後、明治航空サービスに移り、70~80年代は海外旅行がブームと呼ばれるほど、盛んになっていった。そんな中で私は視察や研修を主とする団体の添乗で毎年、年の半分近くは海外を飛び回っていた。
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90年代、バブル経済とよばれた繁栄はダウン、海外旅行も新聞募集などによる短期旅行が主となり旅行業界は安値競争が激化、それまでの視察や研修旅行などわが社が得意としていた旅行形態も次第に減少していった。これらの旅行は準備に手間暇がかかることや通訳など旅行代金が観光旅行などより高くなる。旅行主催団体は入札により価格競争が厳しくなり、旅行の質そのものにも影響していくことになりかねなかった。公的補助が減っていったことが大きな理由の一つでもあろう。90年代後半になると社は大きな拠り所としていた得意先を次々に失い、社を維持することができず、止む無くたどったのが自主閉鎖の道であった。苦労を共にしてきた社員諸君には誠に申し訳なかったが自分の道を歩んでほしいと別れざるを得なかった。 
 
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 社の責任者として社の後始末をしながら、一方では、1988年に初めてお取り扱いしてからほとんど毎年旅行を実施されていたゆきわりそうの姥山代表のご厚意で、当時計画されていたニューヨークのカーネギーホールでの第九コンサートを成功させるため事務局として勤めさせていただいた。自主閉鎖後も引き続きいくつかの旅行業務をご下命くださっていた組織もあり、それを続けるためにも、64年に旅行会社に入社した同期のK君がやっていたK社の嘱託として契約して、旅行業務を続けていた。いくつかの顔を持ちながら、家計を維持するためにも日々塗炭の苦しみを味わっていた。このころ、家族は私を責めることもせず、身体を大事にするようにと励まし、苦しい生活にも耐えてくれていた。ゆきわりそうの姥山代表のご厚意と激励、家族の理解と声援、それがこの時期を耐え抜く大きな支えであったことは間違いない。 
 
 そして、もう一つが高校の同期生の旅行を担当させてもらえたことであった。偶々上京していた有松兄が、「還暦記念のヨーロッパ旅行を企画して、同期生に呼び掛けてみたい」との話であった。俗な言い方で恐縮であるが、干天の慈雨というか、地獄に仏とでもいおうか、大いに勇気づけられる話であり、勇んで旅行計画立案に取り掛かった。これまで数十回は訪れているドイツは南独の中心であるミュンヘン、そしてスイスのベルナーオーバーラントをメインにして、これにオーストリアのウィーンとザルツブルクを組み込んで鉄道とバスで楽しんでいただけるようにと行程案を考えた。同期生諸君には、風物を楽しんでいただくことは勿論であるが、点から点へ航空機での移動ではなく、バスの中で昔を懐かしんで大いに会話に興じてほしいと願ってのことであった。 
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 2002年6月17日から26日まで8泊10日の旅行には26名の参加があった。卒業した42年前、490名であったがほぼその5%が参加してくれたことになる。すでに早期退職した人もあれば、家事に専念している人もあったし、休暇を取った人もあった。配偶者を同伴した人もあった。福岡、関西、関東各地から成田に集合、ウィーンに向かった。機内では、昔を懐かしんで会話する人、それぞれが歩んできた道を話す人など、飛行中の10時間余りはほとんど眠る人もいないほどであった。私たちの学校は校風というのだろうか、気風というのだろうか、同窓会あるいは同期会活動が盛んである。卒業後25年過ぎたところで全校同窓会開催の担当、そして、それから5年過ぎると各地での地区別同窓会の当番が慣例。多くの同期生にとって卒業以来再会する機会はあったが、それでも中には数十年経って初めて再会したという人もあった。 
 
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 ウィーンでは、ワルツを楽しみ、高校時代には想像もできないほど優雅にダンスを楽しむ輩もあったし、グリンツィンの酒場では臨席の外国人グループと日本でも知られている民謡を一緒に楽しむという一幕もあった。ミュンヘンの大きなビヤホールであるホーフブロイハウスでは、近くに陣取っていたアメリカの若い軍人グループとビールの飲み比べ、ここでの日米戦は有松氏が勝利して大賑わい。スイスのミューレンでは海抜2980mのシルツホルンから徒歩で下山した健脚グループもあった。最後のルツェルンでは、フォークロールのレストランで全員が輪になって踊り、捧腹絶倒、最高の盛り上がりであった。旅行中、夕食後、興が乗ってみんなで校歌を合唱するという猛者ぶりにいささか困ったことも今となっては、懐かしい思い出。こうして、還暦ヨーロッパ旅行は大好評のうちに終了した。 
 
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 この旅行が契機となって、旅行好きのメンバーからまたどこか行きたいね、という声や、この前は行けなかったけれど次のときは加えてほしいなどの申し出もあったとか。タイに在住しているM君を訪ねて「仏様に近づくタイ旅行」には40数名が参加、東京、関西、福岡からそれぞれ出発してバンコクの空港で集合という冒険型となった。それ以後もさらに旅行は続き、ハプスブルク家の栄華の跡を巡る旅、北欧4か国、そして、イタリアの美とスイスの自然探勝、スロベニアからクロアチアそしてアドリア海を渡って南イタリアへ、そして、ヨーロッパの最後はやはり英国に行こうと、北から南まで縦断した。他にも、2017年には「まだまだ元気に台湾旅行」、国内も錦繍の京都に集合して城崎へ、このころすでに京都はオーバーツーリズム、嵐山一帯は一緒には歩けないほどであった。今にして思えば、2018年の喜寿記念として、もう一度「城崎へちょっと贅沢な旅行」が最後となった。 
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 こうして、還暦ヨーロッパ旅行に始まって、2002年から2018年までヨーロッパへ計7回、タイ・台湾、国内2回と計11回の旅行を担当させていただいた。最初のころに比べると次第に人数も減り、小型化していったが参加したメンバーからは毎回喜んでいただき、旅行担当者冥利に尽きる思いであり、仲間の友情は感謝の念に堪えない。卒業後40~58年後、旅行参加を通じて改めて懇親を深めていただけたことがうれしく、感慨深いものがある。2000年代始め、私自身が苦しんでいた時期から脱却し、新たに生きていくためにも自らを鼓舞する契機となったことを思いつつ、同期生の旅行を担当する機会を得たことに心からの謝意を表させていただきたい。 
 
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 今年5月、故郷で再会したメンバーは、これまでの旅行にたびたび参加していた人もあれば、いずれかの旅行から20年近く過ぎていたという人もある。還暦ヨーロッパからはすでに22年が過ぎ、お互いに八十路の道をたどっている。さすがに往年の旺盛さは感じられず、むしろ穏やかさだけでなく、優雅ささえ漂っていた。これからも老いてますます盛んであってほしいと願いつつ、散会となった。(飛び入り編、完) 
 
《写真、上から順に。ただし本文の記述内容と同調はせずに掲示》 
・故郷、妹宅から見たボタ山の遠望。子どものころは高く見えていたが今は小さな山。 
・久しぶりの帰省で集ってくれた同期生、右から4人目が有松兄、右端が筆者。 
・還暦記念ヨーロッパ旅行、ウィーンにて 2002年7月 
・同上、スイス、ベルナーオーバーラントのシルツホルン山頂(海抜2970m) 
・仏様に近づくタイ旅行、タイのチェンマイにて 2004年11月 
・ハプスブルク家の栄華の跡を巡る旅、ハンガリーのブダペストにて 2006年7月 
・豊かな自然と21世紀型エコ社会に見る北欧の旅 ノルウェーのベルゲンにて 2008年9月 
・イタリアの美とスイスの絶景を訪ねる旅、 ツェルマットにて 2011年7月 
・まだまだ元気に台湾旅行、 台湾北部野柳海岸にて、 2017年11月 
・喜寿記念プチぜいたく旅行、城崎温泉にて 2018年11月