2024.12.16
小野 鎭
一期一会 地球旅 341 ニュージーランドの思い出(9)オークランド2
一期一会・地球旅 341
ニュージーランドの思い出(9)オークランド2
オークランドは、ニュージーランド最大の都市であり、国際航空路の要衝であるので1974年に初めて訪れて以降、前後5回訪れている。印象が強いのは最初のときもさることながら次の1979年2月、全社協の保育事情視察団の添乗で訪れたときがより思い出深い。この後、1994~5年に訪れているがそれは改めて紹介させていただこう。
保育事情視察団は、クライストチャーチからマウント・クック遊覧などを楽しんだその日の夜、ここオークランドに到着。しかも、翌日は朝から保育関係行政機関の訪問に続いて午後は保育園視察というハードスケジュールであった。まさに、夜討ち朝駆けと言わんばかりの多忙な日程であった。多分、メンバーの中には、なんでこんなに忙しいの?と思われた向きもあったかもしれない。当時の視察団などはこの機会にできるだけ多くを見聞しておこうという考え方が一般的であったような気がする。この日、午前中、公的機関を訪ねた後、午後は市内の保育園などを視察して、夕方早めにホテルに帰館。夕食への出発時間を伝えて、それまでの時間はホテル内での休息などフリータイムとしてあった。
ここでの宿泊は、インターコンチネンタル。このホテルに3泊、この視察旅行でニュージーランドでは最終地であった。今もそうであるが、当時としては、この町での上級ホテル数軒のうちの1軒であったと思う。その日の夕食は中心街の高層ビルにある展望レストランを予定してあり、ホテルからは徒歩圏内であったので多分午後6時半くらいをお伝えしてあったと思う。自分も自室でシャワーを浴び、翌日のスケジュール等に備えて地図などを眺めていたと記憶している。ところが、突然、館内の非常ベルが鳴りだし、廊下があわただしくなった。慌てて、フロントへ電話で確認したところ、火災報知器が作動しており、大至急、非常階段を通って下へ降りてください、とのこと。自分としては、飛び出す前にまずはメンバーにお伝えしなければと、各部屋に電話を入れて在室中のお客様に、とにかくエレベーターではなく、階段を使って下りてください、と伝えた。この時のメンバーは自分を入れて27名、多分13~14室あったと思うが数室は応答なし。止む無く、貴重品を入れた添乗鞄を持って階段を降りてロビーへ出た。階段では自分たちのメンバーのほかにも、外国人客(自分たちも外国人であるが、・・・)ともお互いに血相を変えての移動であった。
ロビーへ出るとホテル・スタッフの指示で駐車場のある広いスペースに行った。日本人と思しきグループもそれぞれまとまっており、自分たちのグループはかなりの人数そろっていたが全員ではなかった。ご不在の方々は、先ほど応答のなかった部屋が多かった。幸い、メンバーの何人かが先ほど外出すると仰っていたとかで、我がグループは全員、異常なしであることがわかり、少し安堵した。
ホテルは10数階建てであったが煙や炎が噴き出している様子は下からは見えなかった。間もなく、ホテルのマネジャーらしき人物からお詫びと説明があった。それによると、ボヤも火災も起きておらず、火災報知器が何かのトラブルで誤作動したらしく、目下詳細をホテルの警備係と消防で探っているところであり、ご心配とご迷惑をおかけしましたが、安心してお部屋に戻っていただきたいとのことであった。この間、非常ベルが鳴ってから3~40分が経過していたかもしれない。ということで緊急体制も解かれ、もう一度、各部屋へ戻って冷や汗を吹き、支度をし直して、夕食へ出かけた。多分、30分くらい約束の時間より遅くなったと思うがあらかじめホテルからレストランへ電話で状況を伝えてもらっていたので難なくお食事を楽しんでいただくことができた。その日の夕食は、勿論、この日の火事騒ぎの話で盛り上がったことは言うまでもない。そして、IHCホテルそのものは、今では、港に近い目抜き通りに新しく建てられて現在に至っていることが紹介されている。
長年、厳密にいうと1964年から2024年の今日まで60年間、旅行業ならびに関連業務に従事し、その中で延べ3,358日間、243回、添乗業務に就いてきたが、ホテルでの火事騒ぎはこの1回のみであった。それも本当の火災ではなく、多分、火災報知設備の誤作動が原因であったらしいとの説明であった。それとは反対にホテルでの洪水騒ぎは度々経験している。つまり、お客様がうっかりしてお風呂の湯を溢れさせて浴室から部屋までを水浸しにされたというトラブルである。宿泊はツインルームにお二人ということが多いが、ご本人の希望により、お一人での個室使用もある。いずれにしても、旅行中は時差によるとか、酔っぱらって熟睡されて、お風呂のお湯などを出しっぱなしにして、浴槽から溢れさせてしまったという例が多い。苦い経験も多々あるが、これについては一例を別の機会に紹介させていただこう。
ところで、この時のグループは、オークランドからハワイのホノルルへ出て、そこで1泊して、帰国されている。日本とニュージーランド間の直行便は、1980年に開設されており、それ以前は、オーストラリアのシドニー乗り換えなどが一般的であった。1979年のこの旅行の場合は、ホノルル経由であった。航空運賃はシドニー経由よりは少し高くなっていたと思うがそれを含んでの旅行計画であったのかどうかは今となっては分からない。それはそれとして、ワイキキで泊まったホテルのプールでの写真が一枚残っており、自分もお客様と一緒にひと時を楽しんだのであろう。(以下、次号)
《写真:上から順に》
・オークランド市内にて 1979年2月
・Auckland Inter-Continental Hotel (1970年代) : National Library of New Zealandより
・夕食会は、この日のハプニングがもっぱらの話題 : 1979年2月 筆者撮影
・ホノルルのパシフィック・ビーチ・ホテルにて : 1979年2月