2025.04.07 小野 鎭
一期一会 地球旅 356 オランダでの思い出(4)オランダはオランダ人がつくった。
一期一会・地球旅 356 
オランダでの思い出(4)オランダはオランダ人がつくった。 
 
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 オランダを初めて訪れたのは、1969年であった。海外医療事情視察団の添乗であり、アムステルダムで病院見学をした。初めての世界一周であった。ここでの主目的は医療事情視察であったが、その前後に市内見学があり、風車と花市場、そして、運河と干拓地が組み込まれていた。その年の秋にも今度は、農業や漁業、商工業などの視察研修であり、干拓事業について説明を受け、牧場や農場見学が含まれていた。そのあとも医療や福祉、教育関係など70年代から80年代にかけて、この国を20回以上訪れているが、共通して言えることはいずれの場合も濃密度の差はあるにしても風車と運河、花市場、そして干拓地が含まれていた。つまり、風車と運河、花づくりと干拓地は私が添乗したグループについていえば、オランダの代名詞であったと思う。そして、いつの場合も、「地球は神様がおつくりになったが、オランダはオランダ人がつくった」という言葉を聞いた。 
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 オランダは、国土の1/4が海面より低いと言われ、事実、地図を見るとこの国の北西部から南部にかけては海面より低い地域として色分けされている。これは干拓して造成された土地がほとんどであり、かつては海底であるとか、浅瀬や湿地帯であったところを干拓して今日みられるように広大な土地になっており、結果として、これらの地域は、海面より低くなっている。オランダの国名は、ネーデルランドであり、これは低い土地に由来しており、複数形に定冠詞を付けることでDen Nederlanden がオランダの国名になっている。英語表記では、The Netherlandsであり、フランス語では les Pays-Bas、ドイツ語 Die Niederlande、スペイン語 Los Paises Bajos、イタリア語Paesi Bassi(いずれも語義は同じ)と表現しており、オランダは国名自体が低地を意味していることが分かる。 
 
オランダの初期の干拓は、11~13世紀に始まっているとのこと。近代的な干拓事業は1612年(徳川時代初期)に始まっており、爾来、堤防に囲まれた区画の中の水を排水するために風車や排水路、水門等で雨水や地下水を排水することで干拓地が拡がっていった。かつてこの国の中部に広がっていたゾイデル海を北海から遮り、高潮被害防止と干拓することを目的として20世紀に行われた「ゾイデル海開発」の大規模な土木開発事業計画であり、1927年にゾイデル海を北海から遮る大規模堤防建設が始まり、1932年に堤防が基本的には完成した。この海の南側一帯はアイセル湖となり、さらに湖の南側一帯に1942年から1968年にかけて1430㎢の干拓地が造成された。干拓地をオランダでは、ポルダー(Polder)と呼んでおり、計画当初は、農業用地とすることが目的であったが、アムステルダムに近い近郊一帯は、新興住宅地など、それなりの面積で占められるようになった。 
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 干拓事業を行うことで大きな課題となるのが環境破壊であるが、より多くの自然を保つために広大な森(Bosch=Bos)や湖沼や運河などでそれを保っている。アムステルダム北方のかつてゾイデル海の大きな入り江になっていた海域は、堤防で囲まれてMarkmeer(マールク湖=面積700㎢=琵琶湖より少し広い)となっており、干拓事業が行われることが予定されていたが、自然の保護という観点から湖沼として維持されることになり、これによってゾイデル海開発計画は結果的には2000年に終了している。具体的な開発工事が始まって70年余り、その間、当初計画は幾度も細部は変更されてきたが、開発事業は、環境を保全し、干拓地は時代の必要に応じて使われるようになり、土地を造成するという目的は一貫して継続されてきたことが分かる。「国家百年の大計」とは、こういうことを指すのであろう。 
 
私たちが良く訪れていた60年代末から80年代にかけてフレヴォラント一帯の干拓は完成に近づいていたことになり、広大な牧場や農場、運河、森や緑地が広がり、運河沿いにはかつての風車が歴史の生き証人として残っていた。そして、そのわきにはポンプ場などがあり、排水が今も継続されており、どこまでも伸びる道路とポプラや柳の並木が続き、そこを走って新興住宅地やそこにある施設や学校、企業などを訪問した。オランダ本土の面積は4.1万㎢であり、日本の九州とほぼ同じくらいである。人口は1,700万人余り、人口密度は400人余と日本よりはるかに高いが、アムステルダムやロッテルダムなどの大都市を中心にこの国の中部から南西部にかけて一帯が人口稠密地帯となっている。新しくできた干拓地などでは都市部以外は農場や牧場などが多く、人口は希薄である。オランダの国の特徴として、そのようなことを説明することが大切であろうと思い、毎回、案内したことを覚えている。 
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フレヴォラント一帯は、1986年にオランダで最も新しい州として誕生し、面積は2412㎢、但し、水域が約992㎢を占めており、実際の土地面積は1420㎢、人口は43万人。 州都はレリー・スタッドで、ゾイデル海開発計画を主導したエンジニアであるコルネリウス・レリーに因んでいる。この州を構成する干拓地で一番古いのが北東地区干拓地で1942年に造成され、面積480㎢、ついで東が1957年、540㎢、南が1968年、430㎢となっている。いずれも東京都 23区の7~8割という広大なものである。いずれも縦横に残されている排水を電動やディーゼル動力による排水路管理が常に行われている。かつてのゾイデル海の最北部で北海と遮る長さ32kmのアフスライトダイク(Afsluitdijk=締め切り大堤防)が造られており、かつての海はアイセル湖という名前の広大な湖になっている。干拓地と高潮から国土を守る水路と水利の維持管理は国家と自治体の最重要な責務となっている。
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オランダには、10か所の世界文化遺産があるが、アムステルダムの環状運河地区だけでなく、キンデルダイク・エルハウトの風車群、スホークラントと周辺の干拓地、ベームスター干拓地、蒸気水揚げポンプ場など運河、干拓地と排水と水利管理などに関するところが5ヶ所、つまりこの国の世界遺産の半分を占めており、この国の干拓事業と排水・水利管理技術が世界でもトップクラスであることを証明していることにもなるだろう。この国を訪れるたびに干拓事業に携わるエンジニアやガイドなどだけでなく、異口同音に言われる「オランダはオランダ人がつくった」という表現を耳にしてきたが改めて納得している。 
 
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2000年代に入ってからは、オランダには縁がなくなっているが、代わりに日本で誕生したテーマパーク「ハウステンボス」を2003年に訪れた。母の米寿を祝う目的であったが親族や自分の都合もあったので、一年前ではあったが姉妹の家族などを含めて20数名が集ったことが懐かしい。ハウステンボスがある一帯の大部分は、江戸時代に干拓された水田地帯跡だそうで、やはり、ここもかつてはポルダーであったことになる。このテーマパークを建設するにあたって、創業者もかつては、ポルダーであったところを、と意識されたのであろうか?(以下、次号) 
 
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《資料》 
・オランダの干拓地 : Wikipedia 
・オランダの世界遺産 : すべてがわかる世界遺産1500下巻 世界遺産アカデミー 発行 
《写真、上から順に》 
・アムステルダム郊外の風車にて、座っているのが筆者 : 1970年代撮影 
・オランダの地図、濃い青の部分が海面より低い土地 : オランダ王国資料より 
・干拓地の堤防で草をはむ羊たち : 1970年代 筆者撮影 
・フレヴォラント州の地図、中央の都市部が州都Lelystad : Flevoland資料より 
・Afsluitdijk : The Afsluitdijk 資料より 
・キンデルダイク・エルスハウトの風車群 : UNESCO World Heritage Centerより 
・母・米寿の祝い、ハウステンボスにて : 2003年 筆者撮影