2026.02.16
小野 鎭
一期一会 地球旅 400 山梨への旅(1) 妻を偲んで
一期一会・地球旅 400
山梨への旅(1) 妻を偲んで
地球旅は今回で400号を迎えました。現在、私は株式会社 SPI あ・える俱楽部の嘱託として、トラベルヘルパーの報告書を精読して、それぞれにコメントを返すことを任務として務めています。そのほかに、社のメルマガ「にこにこ通信」のトラベルヘルパー・マガジンに「一期一会・地球旅」を書いています。今年で旅行業に従事して、62年になりますが、旅行業で経験してきたことや添乗中に出会ったお客様との交流、その後賜ってきたご厚誼、大きな感動や忘れられない思い出、大失敗など今となっては苦笑い、などを綴っています。2014年春先に、社の上司から勧められて書き始めたのですが、今となっては、私と社会との接点として、私自身が大きな喜びを覚え、毎週、書いています。自分史のようなことかもしれません。元より、私自身の経験や感想であり、その当時の世相なども思い出しながら書いていますが、時に勘違いや間違いもあるかもしれません。その場合は、どうぞご容赦ください。今日までお読みくださり、励まして下さる皆様のご好意とご声援に対しまして、心より、厚く御礼申し上げます。併せて、今後ともご愛顧とご支援をよろしくお願い申し上げます。 小野 鎭
私が旅行業に就いたのは1964年、当時は高度経済成長の真っ只中、入社したのと同じ日に、海外旅行が自由化され、誰もが海外に自由に出ることができるようになった。初めての海外添乗は1966年、そして、結果的に最後の添乗となったのは、2019年9月、この53年間に243回の添乗、その内、230回が海外。延べ3,320日近い日々は海外を飛び回っていたことになる。その間、私に心置きなく添乗業務に打ちこむことを支援し、息子たちと家庭を守ってくれた妻に心から有難うと感謝したい。1999年には、社の自主閉鎖を余儀なくされたが、この時も私を責めることなく、息子たちと私を励まし、塗炭の日々を乗り越えさせてくれた。旅行業に身を置きながら、家族とは、週末に1泊か2泊のささやかな旅行しか出来ず、家族そろっての海外旅行などは夢物語であった。2000年代に入って、やっと少しだけ時間的なゆとりができたこともあり、妻とヨーロッパに数回出かけるなど、ほんの少し罪滅ぼしをした思いであった。そして、やっとこれからは、もっとゆっくり、妻と国内・海外と言わず旅行などを楽しみたいと思っていた矢先の2022年、彼女は旅立ってしまった。
2021年夏の終わり、私は、頻尿で夜も眠れず、睡眠不足がたたり、大きく体調を損ねた。やむなく、当時勤めていた専門学校の講師職を退任、療養を余儀なくされていた。妻は、食事作りに何かと工夫してくれたが、なかなか食が進まず、体重も減っていった。幸い、妻の食事作りの効果もあって、少しずつ体力も戻ってきた。そして、11月にかねてより計画していた甲州への旅行に出かけた。杖を使いながら足元は少々おぼつかなかったが何とか箱根を経て河口湖畔の富士レークホテルに着くことができた。それまでに数回このホテルには泊まっていたので心身共にくつろげる思いであった。しかし、ホテルご自慢のフランス料理に私はわずかしか手が付けられず、大半を次男に応援してもらわざるを得なかった。翌朝のブッフェ式朝食も小さなクロワッサンとハム1枚、ヨーグルト少々とオレンジジュースでそれ以上は食が進まず、まだまだ普段よりも体力が大きく落ちていることを自覚せざるを得なかった。それでもこの日、何とか力を振り絞って、富士山の五合目まで息子の運転で寒風吹きすさぶ小御岳神社に詣でるなどした。妻は疲れたと言って土産物店のベンチに座って動かなかった。
この日、このホテルにもう一泊、妻が期待していた貸切風呂が予約してあった。先に息子と私が入り、後学のために内部の写真を撮ったりして入浴し、疲れもとれたような心地であった。続いて、妻が残りの時間、一人でゆっくり入れたと喜んでいた。このホテルは社長の井出泰済氏がバリアフリー化に力を入れておられ、車いす使用のお客様であるとか要介護4、あるいは5といった方であってもトラベルヘルパーが介助してホテル滞在をご本人は元より、お客様とご家族がここで満足されていることが社に報告されている。この時期、すでに紅葉シーズンは終盤であったが、紅葉街道はイルミネーションに照らされてきれいですよ、と案内もあったので、妻に手を引かれて紅葉見物に出かけた。
私が旅行業に就いたのは1964年、当時は高度経済成長の真っ只中、入社したのと同じ日に、海外旅行が自由化され、誰もが海外に自由に出ることができるようになった。初めての海外添乗は1966年、そして、結果的に最後の添乗となったのは、2019年9月、この53年間に243回の添乗、その内、230回が海外。延べ3,320日近い日々は海外を飛び回っていたことになる。その間、私に心置きなく添乗業務に打ちこむことを支援し、息子たちと家庭を守ってくれた妻に心から有難うと感謝したい。1999年には、社の自主閉鎖を余儀なくされたが、この時も私を責めることなく、息子たちと私を励まし、塗炭の日々を乗り越えさせてくれた。旅行業に身を置きながら、家族とは、週末に1泊か2泊のささやかな旅行しか出来ず、家族そろっての海外旅行などは夢物語であった。2000年代に入って、やっと少しだけ時間的なゆとりができたこともあり、妻とヨーロッパに数回出かけるなど、ほんの少し罪滅ぼしをした思いであった。そして、やっとこれからは、もっとゆっくり、妻と国内・海外と言わず旅行などを楽しみたいと思っていた矢先の2022年、彼女は旅立ってしまった。
2021年夏の終わり、私は、頻尿で夜も眠れず、睡眠不足がたたり、大きく体調を損ねた。やむなく、当時勤めていた専門学校の講師職を退任、療養を余儀なくされていた。妻は、食事作りに何かと工夫してくれたが、なかなか食が進まず、体重も減っていった。幸い、妻の食事作りの効果もあって、少しずつ体力も戻ってきた。そして、11月にかねてより計画していた甲州への旅行に出かけた。杖を使いながら足元は少々おぼつかなかったが何とか箱根を経て河口湖畔の富士レークホテルに着くことができた。それまでに数回このホテルには泊まっていたので心身共にくつろげる思いであった。しかし、ホテルご自慢のフランス料理に私はわずかしか手が付けられず、大半を次男に応援してもらわざるを得なかった。翌朝のブッフェ式朝食も小さなクロワッサンとハム1枚、ヨーグルト少々とオレンジジュースでそれ以上は食が進まず、まだまだ普段よりも体力が大きく落ちていることを自覚せざるを得なかった。それでもこの日、何とか力を振り絞って、富士山の五合目まで息子の運転で寒風吹きすさぶ小御岳神社に詣でるなどした。妻は疲れたと言って土産物店のベンチに座って動かなかった。
この日、このホテルにもう一泊、妻が期待していた貸切風呂が予約してあった。先に息子と私が入り、後学のために内部の写真を撮ったりして入浴し、疲れもとれたような心地であった。続いて、妻が残りの時間、一人でゆっくり入れたと喜んでいた。このホテルは社長の井出泰済氏がバリアフリー化に力を入れておられ、車いす使用のお客様であるとか要介護4、あるいは5といった方であってもトラベルヘルパーが介助してホテル滞在をご本人は元より、お客様とご家族がここで満足されていることが社に報告されている。この時期、すでに紅葉シーズンは終盤であったが、紅葉街道はイルミネーションに照らされてきれいですよ、と案内もあったので、妻に手を引かれて紅葉見物に出かけた。
この旅行から戻り、師走に入ると私はかなり回復していったが、反対に妻は体調を損ね、正月の準備も力が入らないようであった。そして、年が明けると外に出ることも少なくなり、一層弱ってきたので医者嫌いの彼女をかかりつけのクリニックで診てもらった。心臓がかなり弱っていることと肝臓の機能が悪くなっていることを告げられた。ある夜、真っ暗な中で壁伝いに手を着きながらトイレに向かっている妻に気づき、パジャマから出ている足を見て驚いた。下肢の浮腫がひどく、歩行が不自由になっているのはそのせいであることが分かった。何とかもっと詳しく診てもらわなければと近くの病院に連れて行くことにした。そこで、はっと気づいたのは、先だって河口湖へ行ったとき、ホテルの貸切風呂にこだわったのは、この浮腫があるため、ホテルの大浴場に入ることはとてもできず、一人でゆっくり入ることを願ったのであったに違いない。そのことをもっと早くに分かっていれば、息子と私は貸切風呂を使わず、彼女をゆっくり心ゆくまで入浴させることができたのに、と悔やまれて仕方がなかった。
そして、4月末からの大型連休の頃、入退院を繰り返していたが、5月13日に急逝してしまった。肝硬変があり、それが急に悪化したことがわかった。もっと早くに受診していればこんなに早く呆気なく逝ってしまうことも無かっただろうにと後悔の念は今も消えず、彼女の医者嫌いを悔いてもそれは自分への言い訳でしかなかった。
それから3年、昨年11月中旬、息子たちと3人で妻の写真を携えて河口湖へ出かけた。錦繍の湖畔の紅葉と周辺の山々を写す湖面に写る風景は正に一幅の名画のようであった。ホテルの南側の窓からは雲一つなく晴れ渡った初冬の空の白雪をいただく富岳の絶景があった。今回も2泊して、この日はもう一か所絶景を求めて昇仙峡の紅葉を満喫してきたが、これについては改めて書くことにして、二日目の夕食について書きたい。妻が亡くなったことをホテルの井出社長にお伝えしてあったが、井出氏からはぜひ、奥様の写真を携えてお出かけください、とお誘いを受けていた。妻が逝って3年半、1泊以上の旅行などに出かけるときはいつも妻の遺影を携えて出かけることにしていた。今回も朝食や夕食のテーブルには写真を置き、一緒に食事を楽しむことにしていた。そういえば、朝食のブッフェでも隣に座っていた二人連れのニュージーランド人が私たちのテーブルを見てにこにこ笑いながら私たちの幸せと妻への祈りをしてくれ、嬉しいひと時であった。
そして、4月末からの大型連休の頃、入退院を繰り返していたが、5月13日に急逝してしまった。肝硬変があり、それが急に悪化したことがわかった。もっと早くに受診していればこんなに早く呆気なく逝ってしまうことも無かっただろうにと後悔の念は今も消えず、彼女の医者嫌いを悔いてもそれは自分への言い訳でしかなかった。
それから3年、昨年11月中旬、息子たちと3人で妻の写真を携えて河口湖へ出かけた。錦繍の湖畔の紅葉と周辺の山々を写す湖面に写る風景は正に一幅の名画のようであった。ホテルの南側の窓からは雲一つなく晴れ渡った初冬の空の白雪をいただく富岳の絶景があった。今回も2泊して、この日はもう一か所絶景を求めて昇仙峡の紅葉を満喫してきたが、これについては改めて書くことにして、二日目の夕食について書きたい。妻が亡くなったことをホテルの井出社長にお伝えしてあったが、井出氏からはぜひ、奥様の写真を携えてお出かけください、とお誘いを受けていた。妻が逝って3年半、1泊以上の旅行などに出かけるときはいつも妻の遺影を携えて出かけることにしていた。今回も朝食や夕食のテーブルには写真を置き、一緒に食事を楽しむことにしていた。そういえば、朝食のブッフェでも隣に座っていた二人連れのニュージーランド人が私たちのテーブルを見てにこにこ笑いながら私たちの幸せと妻への祈りをしてくれ、嬉しいひと時であった。
この日の夕食は、「赤富士の間」で和食の懐石料理。写真を出したところ、ホテルの好意で妻にも夕食を供えていただき、息子たちと共にホテルのおもてなしに感謝しつつ素晴らしい一夕を楽しむことができた。きっと妻も晩秋の河口湖でのひと時を楽しんでくれたに違いないと信じている。 合掌 (山梨への旅、その1)
《写真、上から順に》
・初めての添乗 香港・台湾7日間、香港/マカオ日帰り旅行の船上にて(1966年)
・最後の添乗 カナディアンロッキー・コロンビア・アイスフィールドにて(前列真 中が筆者 2019年9月)
・スイス・ベルナーオーバーラントのミューレンにて 猫と遊ぶ妻(2007年7月)
・箱根 大涌谷にて (2021年11月)
・富士レークホテルの貸切風呂(2021年11月 筆者撮影)
・錦秋の河口湖、富士レークホテル6階から(2025年11月 筆者撮影)
・晩秋の富士山 富士レークホテル6階から(2025年11月 筆者撮影)
・妻に供えていただいた食事 富士レークホテルにて(2025年11月 筆者撮影)