2025.04.28 小野 鎭
一期一会 地球旅 359 スコットランドでの思い出(3)古城ホテルに泊まる
一期一会・地球旅 359 
スコットランドでの思い出(3)古城ホテルに泊まる 
 
その翌年(1974年)、またエディンバラを訪れた。東京からAF機(エールフランス)でモスクワへ飛び、ここで2泊、当時はソ連であった。市内見学の後、早めの夕食、ボリショイバレーを鑑賞した。この時代、ソ連では訪れる都市や場所などは制限されていた。旅行手配は国営の旅行会社であるインツーリストに、人数、宿泊日数、半日または全日の市内見学、夕方のアトラクションなどの希望を伝えるとそれに沿った滞在プログラム、言わば官製の滞在プランが準備されていた。到着から出発まで指定のガイドが同行し、写真撮影の可否なども含めて案内してくれた。案内業務であると同時に監視もされていたのかもしれない? この時は、すべて英語での案内あった。 
 
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モスクワで宿泊したのは、その名もウクライナ・ホテル。スターリン・ゴシック様式というスタイルだそうで高さ206mの高い塔が立っていた。各階のエレベーターホールに鍵番を兼ねたデスクがあり、いかめしい女性のスタッフが座っていた。現在は、ラディソン・ロイヤルズ・ホテルモスクワという名前になっているとのこと。モスクワの後、ストックホルムを経てヨーテボリへ出てヨーテボリ大学病院を見学した。ヨーテボリはスウェーデンではストックホルムに次いで2番目に大きな町であるが、市内をまわり、中心街を歩きながら、自由圏での快適さを感じてホッとしたような気がする。 
 
その後、ロンドンを経てエディンバラ、さらにハイランド地方、それからヨーロッパでいくつかの国をまわり、大西洋を越えてアメリカのボストンへ。次いでシカゴからサンフランシスコなどをまわって帰国。この時も33日間、世界一周であった。この前後の数年は、欧米や南半球など1か月前後の長期にわたる視察旅行の添乗が多かった。当時は、自分が勤めていた旅行会社は規模が小さく、役員を含めて添乗員として飛び回っていたが、農業や建設、医療や福祉、教育関係などの視察旅行の取り扱いを得意としていた。従って、社員数の割には添乗に出る機会が多かったが、役員が長期間出ることはやはり難もあり、私たち若手が長期の添乗に出ることが多かった。私自身、顧客先から添乗だけでなく視察プログラムでもより深くかかわってくれるということで評判を得、特に医療や福祉関係団体の添乗が次第に多くなっていった。 
 
一方、毎年、添乗していた海外医療事情視察団は、一か月以上の世界一周などというのはやはり、医療部門の管理職などが長期にわたって席を空けるということには難もあったと思われる。徐々に規模が縮小され、一方では派遣団数を二つに分けるなど小型化が図られるという工夫もされていった。人数は、25人以上など大人数になると小回りが利かず、主催団体様と協議して人数が多い時は、添乗員の人数を複数にするなど考慮された。社としては、活気はあったが、同業他社との競争もあり、旅行代金を抑えながら、それなりの内容は維持しなければならず、品質管理は大きな課題であった。 
 
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さて、エディンバラでは、この時もウェスタン総合病院を見学、病院側では私の顔を覚えていて下さり、親しく迎えていただき、誇らしい思いであった。この時は、このあとハイランド地方は奥地へは入らずに途中の湖や小さな町などに寄るなど、ゆっくり回ることを含めて移動距離は短く各地での風物をお楽しみいただくことにした。後になって後悔したことは、スコットランド出身の学者など有名人についても案内すれば添乗兼ガイドとしてももっとお客様に喜ばれたのではないかという反省があった。正直なところ、当時は営業活動と視察分野や未知の町々についての学習、視察希望先への訪問許可取り付けなどに追われ、もっと幅広く準備しなかったことが悔やまれる。文豪ウォルター・スコットやイングランドの湖水地帯(Lake District)で知られるウィリアム・ワーズワース、経済学者アダム・スミス、産業革命に至る技術者ジェームス・ワット、蒸気機関車のロバート・スティーブンス、貿易商人ウィリアム・グラバー(長崎のグラバー邸)などスコットランド出身の有名人はたくさんあり、バスの中でそんな人名を上げれば先生方はこの地への興味をさらに強めて下さったのではないだろうかと、今になって思う。 
 
 今回は、ハイランド地方への入り口、スティアリング(Stirling)を経て、緩やかな丘陵地(Ben)、美しい湖水(Loch)やせせらぎ、谷間(Glen)などが続くトロサックス地域にある小さな湖ロッホ・アクレー(Loch Achray)の畔に建つ古城ホテルに着いた。幾度か前に書いているが、英国でも、さらに高緯度にあるスコットランドでは夏は日暮れが遅いが、気温はそれほど高くない。さらに曇りや雨の日など冷涼な天気も多く、セーターやコートが欲しくなる。樹林は深い霧に覆われ、氷雨を思わせるような冷たい雨が降っていた。ホテルは塔の先端が霧の中に隠れており、古色蒼然とした石造りの建物に入っていくと、それでも、ロビーは暖炉の火が暖かさを感じさせ、ほっとした。ホテル内は奥ゆかしさを感じさせ、室内は勿論、廊下から階段まで絨毯が敷かれていた。壁にはスコットランド各地の風景を描いた絵画やクランマップ(各地の領地の旗など)が掛けてあった。客室はゆったりした造りで重厚さを覚える部屋があるかと思えば、わりにサッパリしていて、ゆかしさを覚えるにはちょっと寂しい部屋もあった。全体で10数室に分かれたため、ご機嫌な先生方もあれば、あまり面白くない顔をしておられる方もあった。窓からは、雨に煙った森と湖畔の寒々とした風景が見えていた。 
 
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添乗員として私が入った部屋もそのような寂しい部屋であった。浴室はあったが、大きな浴槽は後付けであろうか、壁高くにシャワーが取り付けられており、申し訳のようにシャワーカーテンが付けられていた。気になったのは、浴槽の周りまで絨毯が敷かれていることで、シャワーを浴びると周りに水が飛び散り、絨毯に水が沁み込むのではないか言うことであった。天井が高く、部屋の中はまだ温まっておらず、冷え冷えとしていた。浴槽にお湯を張って身体を洗う時は限りなくお淑やかに肩からお湯をかけるなど慎重さが必要だった。そして、シャワーを浴びるとやはり上品に洗ってもお湯が飛び散り、シャワーカーテンはあまり役立たず、結局、浴槽の周りは水が広がってジュータンに少しずつしみ込んでいた。以前、アムステルダムでの洪水騒ぎのトラブルについて書いたが、それよりも前に自分自身がちょっとした洪水騒ぎを起こしていたわけで、恥ずかしいことには違いない。このトラブルは自分自身の責任ではなく、浴室の作りがお粗末であって不可抗力(irresistible force)だと、言い訳をしながら、それでも浴室を損なったことについてはフロントに詫びたことを覚えている。結局、この時は風呂上がりのサッパリしたさわやかな気分を味わうことはできなかった。 
 
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この経験を初めとして、その後もオーストリアやドイツで、Schloss Hotel、あるいはフランスでChateau Hotel、英国では古城ホテルのほか、Manor Houseと呼ばれる城館タイプの建物、インドにはかつてのマハラジャの宮殿であるPalace などをホテルにした宿泊施設にも泊まったことがある。いずれも、元来、ホテル用に作られた建物ではないだけに、部屋のタイプは様々であった。施設や設備は豪華であっても、中にはメインテナンスが行き届かず、個人や少人数の時は楽しめたことを覚えているが、グループとしては正直なところ、使いにくいと思ったことも多い。 
 
ところで、このとき宿泊した古城ホテルは、理由は分からないがその後、ホテルと しては閉館され、いまはホリデイ・アパートとして長期滞在などができるように貸し出されていると紹介されている。 
 
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トロサックスから翌日は、ロッホ・ローモンドへ出て、湖上遊覧を楽しみ、グラスゴーに宿泊し、その後イタリアのローマへ飛んだ。真夏のローマはまぶしい陽射しで乾いた暑さ。スコットランドに限らず英国や北欧、あるいはドイツなど、音楽家メンデルスゾーンや文豪ゲーテだけでなく多くの人々がまぶしい明るさとさわやかな暑さを求めて地中海方面など南欧に憧れることが分かるような気がした。(以下、次号) 
 
《写真、上から順に》 
・ウクライナ・ホテル (1970年代) : Wikimedia より 
・ウェスタン総合病院にて(前年にも会った看護師): 1974年 
・トロサックスのホテル : The Trossachs Hotel資料より 
・ランバーグ・パレス(インドのジャイプール) : 1994年 
・ローマ・コロッセオにて Doctor Tour (前列右端が筆者) : 1974年