2025.09.29
小野 鎭
一期一会 地球旅 381 ドイツの思い出(21) ハイデルベルクにて(4)

一期一会・地球旅 381
ドイツの思い出(21) ハイデルベルクにて(4)
ドイツの思い出(21) ハイデルベルクにて(4)

ハイデルベルクでは、児童・青少年向けのサービスとして、エンメルツグルント幼児総合センター(報告書での標題)を見学している。「エンメルツグルント地区は、ハイデルベルク市のベッドタウンで丘陵地帯にある。この地域は、1969年から住居、教育、宗教、福祉、レジャー等生活全般にわたる計画的街づくり(当初は10年計画であったが計画が伸びて終期は未定)が進行中である。その一環として市の児童総合センター建設が予定されており、そのうちの一つとして保育所が2週間前に開設された。」(1975年11月の報告書より)

そこで、エンメルツグルントでの児童・青少年サービス(Kindedr & Jugend Emmertsgrundについて今のホームページを開いてみた。https://kinder-jugend-emmertsgrund.de/「エンメルツグルント児童・青少年センターはハイデルベルク市の児童青少年部の施設です。」とある。この地域は、ハイデルベルク市の旧市街の背後、古城のあるケーニヒシュトゥール山の南側山麓の斜面一帯にあり、市の郊外の住宅地として1970年代から建設されてきたとある。児童・青少年サービスとして、青少年センター(13~18歳向け)、ユースカフェ、子どもの建設現場と名付けられた自然の遊び場的な屋外施設(6~12歳向け)、子どもの町(小学校開放時間外の学童保育=児童館)などがある。私たちが訪ねた50年前から今日までのこの地区の発展と成長を見るようである。ここで興味深いのは、報告書にもあるように「宗教」という言葉が含まれていることである。この国の大多数がキリスト教徒であるだけでなく移民もたくさんあり、市民生活と社会で様々な宗教についても意識されていることが分かる。この地域の小学校のことがこの地域の地方紙で紹介されており、併せてお伝えしておきたい。

ハイデルベルク – 「ここでは両方の世界の最高のものが組み合わされています」 – エンメルツグルント小学校は、新しい州のモデルに従って1年間全日制学校となっています」写真掲載 (ライン・ネッカー紙 2017/07/24)

最後に、もう一つ興味深かった施設を紹介させていただきたい。Heidelberger Werkstätten für Behinderte Lebenshilfe=ハイデルベルク知的障害者作業所である。「障害者生活協同組合(Lebenshilfe)の経営で、ここは全国的な民間の組織体であるが国の補助を受けている。この組織は、12年前(1963年)、ドイツに住んでいた一人のオランダ人によって始められており、先ず、障害者を持つ親の会が発足し、『障害者の人権を守れ』という市民運動を展開した。同時に積極的にドイツ連邦政府に働きかけ、全国的な組織に発展していったものである。今日では、法律的にも保護された団体となっている。」(1975年の報告書より)さらに続く。「作業所は3階建て、地下1階の建物、現在16歳から46歳まで、IQ20~70くらいまでの障害者140人が訓練を受けており、大部分が通園者、一部が寄宿している。目下、施設を拡充する方向で250人の受け入れを目指している。目的は、各種の職業訓練を通して社会復帰をねらいとしている。しかし、現実には、ここから一般の職場へ行くのは2~10%で、残りはここが生涯の仕事場となっている。社会復帰が思うようにはいかず、職業訓練というより、こうした人々の特別な職場となりつつある。入所希望者が多いので施設の拡充を進めているが真に社会復帰をねらうとするなら、小規模の施設を数多く、それぞれの地域につくることが望ましいが、理想通りにはいかないという悩みがある。」という。(当時の報告書より抜粋)

これは正にボンで第九コンサートを行うために協力をしていただいたDr. Tom Muttersその人である。彼はオランダ人であり、彼がマールブルクで1958年に設立したLebenshilfeのことであり、そのハイデルベルクでの事業所への研修訪問について報告書を読み直して気づいたことである。当時は、収容施設であるとか、通所施設と言った呼び方が為されていたと思うが、一方では70年代から80年代にかけて、収容施設から地域での居住促進、そして、大規模収容施設(Institution)の段階的解体(De-institutionalization)が叫ばれ始めていた時代でもあったと思う。また、この報告書では、社会復帰という表現が見られるが、重度の障がいのある人たちは社会的な活動が制約されていることが多く、復帰というよりは社会参加という言い方に次第に改められていったことも覚えている。米国などでは、Re-habilitationではなく、Habilitationという言葉が使われていたこと思い出す。ノーマライゼーションという言い方が始められたのもこのころであるような気がする。そして、今では、社会統合Inclusionという言い方に変わってきているのではないだろうか。

あれから50年後の今、「レーベンスヒルフェ・ハイデルベルク」についてのH/Pを開いてみると次のように冒頭の案内がある。https://www.lebenshilfe-heidelberg.de/ueber-uns
邦訳では、「あらゆる年齢層への効果的な支援」1961年4月11日、当時の名称である「Lebenshilfe für das geistig behinderte Kind e. V. ハイデルベルク地方協会」は、親、医師、心理学者からなるグループによって設立されました。これは、ドイツ連邦共和国における37番目のレーベンスヒルフェ地方協会でした。レーベンスヒルフェ・ハイデルベルクは、政治的および宗教的に独立しており、非営利団体として認められています。その使命は、あらゆる年齢層の知的障害および重複障害のある人々とその家族に効果的な支援を提供するためのあらゆる施策と施設を推進することです。レーベンスヒルフェ・はイデルベルクは、現在も親と家族の団体として活動しています。同時に、独自の専門知識を活かし、障害のある人々のための専門サービス提供者および自助グループへと発展してきました。現在、主にハイデルベルク市とライン・ネッカー地方から約 800 人が専門家グループによるカウンセリング、ケア、教育、サポート ネットワークを利用しているほか、統合型 プステブリューメ 幼稚園、ハイデルベルク作業所、居住サービス、オープン サポート サービスなど、職業生活に参加する機会が開かれています。」
この案内文を見ると、知的障害者が一般社会の中で生活していくうえで必要とされる様々なサービスが講じられていることが分かる。

この研修団の翌年、1976年に当時の表現で「国際精神薄弱研究協会世界会議」への出席グループ(旅行企画:日本精神薄弱研究協会:現日本発達障害学会)の添乗以降、知的障害関係施設、研究・教育関係、親の会(育成会)など多くの知的障害関係団体の研修、視察、国際会議出席などの添乗を30年以上にわたって集中的に担当させていただいてきた。それにより、この分野への興味が一層高まり、私の生き方に大きな影響を及ぼしたと言っても過言ではない。(以下、次号)
《写真、上から順に》
・エンメルツグルント幼児総合センター:1975年:社会福祉調査会 報告書より
・エンメルツグルント市:Emmertsgrund資料より(2025年)
・エンメルツグルント小学校の授業風景:Rhein Neckar Zeitung 2017年7月24日
・ハイデルベルク障害者作業所の訓練の様子:1975年度社会福祉調査会報告書より
・レーベンスヒルフェ会長 Dr. Tom Muttersを囲んで:北海道精神薄弱者愛護協会1989年1月(ドイツ、レーベンスヒルフェ本所にて、前列右から4番目がトム・ムッタース会長)
・ハイデルベルク・レーベンスヒルフェ作業所でのインクルージョンへ向けての訓練風景:Lebenshilfe Heidelberger Werkstättentten für Inklusion資料より(2025年)
・カンサス州立大学・発達障害研究所にて(IASSMD世界会議 於ワシントンDCの前に訪れたDevelopmental Disability Institute, University of Kansas 1976年8月