2025.11.10 小野 鎭
一期一会 地球旅 387 アメリカ・カリフォルニアにて(2)
 一期一会・地球旅 387 
アメリカ・カリフォルニアにて(2) 
 
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サンディエゴと言えば、MLB(メジャーリーグ)のサンディエゴ・パドレスの本拠地でもあり、ダルビッシュ有投手などの活躍があるが、この地を私たちが訪れた1969年にパドレスは創設されたらしい。 
ここでの視察研修を終えて、ロサンゼルス(LA)へ向かった。アメリカ西海岸の大動脈である州際自動車道路(インターステート・フリーウェイ)の5号線(I-5=通称サンディエゴ・フリーウェイ)を北上して3時間半弱。途中、米国海兵隊の演習地などのある国有地の中を抜けており、その間の25マイル(約40km)は、ノンストップで走り抜けることが求められている。 
 
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LAに着いたところで一週間にわたってカリフォルニア州の南半分を走ってくれたグレイハウンドのチャーターバス、ドライバーのアル・カーク(Al Kirk ALはアルバートかアルフレッドかは不明)とはここでお別れだった。190cmに近い大男の彼は映画で見る西部の男といったタイプであったが人懐っこく、メンバーにはとてもやさしく接してくれた。一人ずつと握手をして別れた。私は、サンフランシスコからサンディエゴ、そして、LAまで走り抜けたことで加州が日本の総面積よりも広いことを知った。その南側半分を北から南へ走り抜けたことで何かすごい体験をしたような感動を覚えたことを思い出す。アル・カークからはバスの車窓風景だけでなく、アメリカ人の生活や仕事ぶりなど、いろいろなことを話してくれた。それを聴いているうちに英会話というか、英語がかなり心地よく耳に入ってくることがうれしかった。彼は、LAのホテルで私たちを降ろし、トランクルームから全員の荷物を下ろして、サンディエゴのガレージを目指して去って行った。 
 
明日は、午前中LAの市内見学、午後は買い物などフルータイム、そして、明後日、LAを発って、ハワイのホノルルに向かうことになっていた。チェックインを済ませ、荷物などはポーターに各部屋に運んでもらうことになっている。自分も部屋に落ち着き、荷物などを整理していた。間もなく、団長から部屋に来て欲しいと呼ばれた。何かトラブルが起きたのかも?ちょっと不安な予感がして、団長室のドアをノックした。部屋に入ると団長のほかにメンバーの一人が悄然とした様子でベッドに腰かけていた。そして、話を聞いて驚いた。日本から持ってきた小遣い(米ドル)と日本円などを入れていた腹巻をバスのシートとバスの窓側の壁の間に置いて荷物を整理した時、うっかりしてその腹巻を置きっぱなしにしてバスを降りたとのこと。1週間の移動中、宿泊するごとにスーツケースなどはバスから降ろして部屋に運んでいたが、ジャンパーであるとか宿泊に必要のない小物などはバスのシートの上であるとか、網棚に置きっぱなしにすることも多かった。バスはホテルの駐車場か近くのパーキングに置いてあったし、ドライバーも同じホテルに宿泊していたので問題はなかった。 
 
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しかし、この日、LAに着いたところで前述したようにバスの契約は終わり、サンディエゴへ向かって走り去っている。ホテルに着いたとき、私は車内に忘れ物をしないようにと念を押して、バスを降りたことははっきり覚えているがバスの中を後ろから前まで置き忘れた物はないかなど入念に見回ることはしていなかったので、一瞬、苦いものがのどを通って沸き上がっていたと思う。話を聞いてみると、腹巻には、日本から持ってきた小遣いの米ドルの残り、多分4~500ドル=邦貨で14~5万円と日本円が5万円、合計で20万円くらいだったとか。1ドルは公定レートで360円であったが、当時の物価水準から言えば、1ドルは1500円くらいに相当すると言われていたので実際には4~5倍の金額に相当したと思う。事実、私の当時の月給は5~6万円であったので、その4~5か月分にあたる金額であった。 
 
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翌日、日本へ持ち帰るための土産物など買う予定であり、多くの人は、それまではほとんど土産物らしいものは買ってはいなかった。当時は海外視察や研修などに出かける人が増えてきていたが農業分野では、農協からの派遣であるとか、地域を代表して出かける人なども多かった。お餞別をいただいてきている人が多く、帰国後、家族や勤務先だけでなく、お餞別をいただいた相手に海外からのお土産品を配るのが言わば習慣となっていた。出発前に日本国内で事前に海外からのお土産品を注文しておくとか、海外のお土産専門店や空港の免税店でウィスキーやタバコなどを買う人が多かった。この時も胴巻きを置き忘れたというメンバーは、LAの土産物店でまとめてお土産品を買う予定があり、さらにこの後、ホノルルの免税店で免税品を買うなどの予定であり、それまでの旅行中では、その地域の民芸品的なものやちょっとしたアクセサリーなどを買っただけであったとのこと。財布にわずかばかりの小銭を別にすればほとんどスッテンテン状態であり、落ち込んでおられたのも無理からぬことであり、事情は十分に理解できた。 
 
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団長から、バスに置き忘れたのは本人の不注意であり、誰を責めることもできないが、何とか取り戻す方法を考えて欲しい、と私に懇願された。当時は、勿論、携帯電話もなく、ドライバーと直接に連絡する方法はなく、お手上げ状態であった。唯一覚えていたのは、ドライバーであるアル・カークがLAからいったんサンディエゴのガレージに直行するということであった。もう一つ、これまでバスの移動中、時々ドライバーが別のバスやグレイハウンドのオフィスなどと無線でやり取りしていたことであった。とは言いながら、当該バスのLA事務所に連絡して、一連のトラブルの経緯について説明し、バスの車内から腹巻を回収して欲しいという複雑な依頼をするだけの英会話には正直なところ、自信がなかった。そこで、この旅行の地上手配を担当していたオペレーターのLA事務所に電話をかけることを試みたが、すでにオフィスは閉まっているらしく応答がなかった。そこで、緊急連絡先として書いてある幾人かの担当者に電話してみた。幸い、LA事務所の所長と連絡が付き、一連の流れについて説明した。彼はすぐに事情を理解して、グレイハウンドに連絡をして、バスのドライバーにコンタクトしてもらうようRQ(依頼)するので、わかり次第、連絡をするので部屋で待機しておいてほしいということであった。 
 
すでに夕食時間になっていたが、自分は動くわけにはいかないので団長から団の事務局の担当者に事情を話して団員だけでホテル近くのレストランに行ってもらい、自分たちで食事をしてもらうことになった。こうして、ひたすらLA事務所のチーフからの連絡を待つのみであった。どのくらい待ったであろうか、かなり時間が経って連絡があり、グレイハウンドのLA事務所とドライバーのアル・カークと連絡が取れて、Money Belt(腹巻)を発見したということであった。とにかく嬉しかった。バスは、サンディエゴへ向かってI-5フリーウェイを走っていたため、どこか途中のドライブインで駐車して該当するシートの辺りを探したのであろう。結論は、サンディエゴのガレージの事務所に届けておくのでそれからのことはサンディエゴ事務所に相談するように、とのことであった。グループは近くのLittle Tokyoの日本食レストランで夕食をしてホテルに帰ってきたところであった。とりあえず、私は団長室に行って一件について報告をした。団長と件(くだん)のメンバーは小躍りせんばかりの喜びようであった。そして、小野の手を握り、お礼を言ってくれたことを思い出す。(以下、次号) 
 
《写真、上から順に》 
・サンディエゴ・パドレスの創業を伝えるSan Diego Union紙 1969年4月8日 
・I-5 Interstate 5号線:サンディエゴ・フリーウェイ1960年代:Calisphereより 
・Greyhound Bus 1960年代:Greyhound Bus資料より 
・ロサンゼルス・Little Tokyoの店舗 安心堂 :日本人にも人気のあった店舗:50年営業の歴史に幕を閉じるとのこと。(2021年4月):羅府新報 2021/3/30より 
・Greyhound Bus Los Angeles Terminal 1960年代:Greyhound Bus資料より