2025.12.29 小野 鎭
一期一会 地球旅 394 大阿蘇から久住への旅(5)
一期一会・地球旅 394 
大阿蘇から久住への旅(5)
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中岳火口の見物を終えて次に訪れたのは、草千里浜であった。阿蘇山を代表する観光地の一つであり、海抜1,100mの高さにあり、放牧された馬たちが悠々と歩く姿、のんびり草を食む牛たちの姿が遠望される。その向こうには杵島岳がゆったりした姿をみせている。大きな駐車場があり、ここには阿蘇火山博物館、カフェ、レストラン、土産物店などがあり、観光客で賑わっている。多分、中学の頃であっただろうか、国語の教科書に三好達治の草千里浜(艸千里浜)「名もかなし艸千里浜」が思い出される。三好達治の作品には、「大阿蘇」と「艸千里浜」があるという。大阿蘇は口語詩調であり、叙景詩となっている。もう一つの艸千里浜は文語調で抒情詩風だそうである。叙景=風景を詩文に書き記すこと、抒情詩=自己の感情を主観的、情緒的に表現する詩とある。つまり、大阿蘇は、風景をそのままに紹介している詩であり、艸千里浜はその風景を見ることで自分の感情に様々な想いを寄せているということであろうか。わずかに覚えているのは、「我かつてこの国を旅せしことあり」と最後の「名もかなし、艸千里浜」である。草を「艸」と書いていることがさらにむつかしい。三好達治の詩を読んでみると、なんと難しい表現であるのだろう。私にはとても及びもつかない詩であり、表現である。だんだん分からなくなり、それ以上は考えることをやめた。
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旅行で訪れて詩が思い出されるのは、藤村の「千曲川旅情の歌」“小諸なる古城のほとり、雲白く游子悲しむ・・・”がある。むしろ、多くの人が藤村の詩に魅せられて長野県小諸市の城跡を訪れる人が多いかもしれない。かくいう私も小諸は数回訪れているのでその都度、あの城跡から千曲川を眺めている。むしろ、信州各地を訪れるたびにあの場所まで足を延ばしているような気もする。
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この日、草千里浜は空も青く、暖かく、そよ風に吹かれて、たくさんの観光客が草原を歩き、馬に乗っている人も目についた。そして、牛が草を食んでいる風景もみられた。観光案内にある様子そのままの風景であった。草千里浜を終えて、阿蘇パノラマラインを北へ向かい、少し高度が低くなってきた。杵島岳もすぐ近くにみえる。次いですぐ左側に盃を伏せたような小山が見えてきた。義弟がここもぜひ紹介したいと言っていた「米塚(こめづか)」であった。案内を見ると、比高80m、山頂は標高954mで、均整の取れたスコリア丘(マグマが噴出した際にできた山でお椀を伏せたような形をしている ことが多い)であり、阿蘇山全体にわたってみると米塚のほかにも杵島岳、往生岳、蛇の尾など計4か所が該当するとある。(Wikipedia 阿蘇山より)義弟の子どもたちがまだ小さいころ、この山のてっぺんまで登ったそうで、ワイワイキャーキャーと楽しんだことだろう。但し、今はこの山に登ることは禁止されているらしい。このスコリア丘で思い出すことがある。米国はアリゾナ州のグランドキャニオンは幾度も訪れたが、その内、数回はフェニックスから小型機で飛んでおり、カイバブ高原の上空で眼下に米塚と同じように美しい山容を見たことがある。また、インドネシアのバリ島からジャカルタへ飛んだ時も似たような山容を見たことがある。ただし、こちらは富士山と同じようなコニーデ型で今も噴火を続けている火山であったかもしれない。火山の多い地形であれば、それほど珍しくはない火山の種類であるのだろう。 

米塚を左に見ながら次第に高度が下がり、間もなく国道57号線に出た。阿蘇盆地で五岳の北側では、阿蘇谷と呼ばれ、この地を東西に貫いている幹線道路である。この日の昼食は長妹たちの提案で滝室坂にあるそば店で摂ることになっていた。秋の行楽シーズンでもあり、加えて週末とあって、店は繁盛しているらしく、30分くらい待つことになったが店が自慢するだけあってなかなか美味であった。この店自慢の高菜漬けは自宅に戻ってからもしばらく食事のお伴として楽しむことができた。 

北側の外輪山は総じてなだらかな丘が続いているように想像していたが、そこへ向けて少し国道を戻り、やまなみハイウェイを上っていく途中、阿蘇神社に立ち寄った。2016年の地震で大きな被害が出たと報じられていたがこの神社についての詳しい知識は持っていなかった。修復中のところもあったが本殿や境内は支障なく通れて、参拝することができた。神殿や楼門は国の重要文化財であり、きわめて文化的価値の高いものであり、それだけに修理も大がかりであっただろうと察する。
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改めて、この神社について調べてみた。阿蘇神社は、神武天皇の孫神で阿蘇を開拓した健磐龍命(たけいわたつるのみこと)をはじめ家族神12神を祀り、2,000年以上の歴史を有する古社。古来、阿蘇山火口をご神体とする火山信仰と融合し、肥後の国一之宮として崇敬を集めてきた。宮司職を世襲する阿蘇氏は、わが国でも有数の旧家として知られており、中世には武士化して肥後の国を代表する豪族に成長、500社に及ぶ分社があるのは、こうした歴史的背景があると考えられる。阿蘇神社の社殿群は、天保6年(1835)から嘉永3年(1855)にかけて熊本藩の寄進によって再建されたもので神殿や 楼門など国の重要文化財が熊本地震によって倒壊するなど社殿のほとんどが甚大な被害を受けたが、令和5年(2023)に復旧工事が完了している。「これらの修復工事は国、熊本県、阿蘇市の補助事業として進められてきました。楼門の組み立てなどには部材の7割を再利用すると共に構造補強により、耐震性が増したこと、並行して重文以外の社殿等の復旧にも税制上の優遇特例措置を活用することなどでこれらの工事も完遂することができました。このように当神社の復旧復興等に暖かいご支援とご協力をいただいたすべての皆様に心より謝意を表すると共に今後も当神社を温かくお見守りいただきますと幸いです。」と宮司の阿蘇惟邑氏の挨拶がある。
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阿蘇神社では、持参したカメラの所在を巡ってあわてたこともあり、ゆっくり参拝できなかったこと、加えて境内を詳しく見物することもせず、去ってしまったことが悔やまれる。機会を見つけてもっとゆっくり完全復旧を終えたこの神社を参拝したいと願っている。
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阿蘇市の中心部を抜けていよいよ北側外輪山第一の展望地として知られている大観峰を目指した。ここからは国道212号を上っていくと予想していたが、週末の午後で交通量も多くなっていた。ここでは長妹のパートナーがカーナビとスマホの道路情報を駆使して地元の人も驚くような田んぼの中の道であるとか、森の中を調子よく走り抜け、やがて大観峰に達した。頂上の駐車場は予想通り、かなり混んでいたが幸いうまく駐車することができた。ふもとの阿蘇神社でだいぶ時間を使ったが、カーナビやスマホの道路情報をうまく使うことで時間を節約できた。近代兵器とその巧みな使い方に脱帽である。大観峰は、北側外輪山の一峰であり、海抜935m、直下に阿蘇谷一帯と阿蘇五岳からくじゅう連峰まで眺望できる絶好の展望地として知られている。義弟はこの旅行の出発前から大観峰からの眺めをぜひ楽しんでほしいと推奨していた。私もそれを楽しみにしていたが、惜しいかな、途中から霧が発生し、肝心の大観峰からの展望はほとんど叶わず。僅かに西側の一部が見えるくらい、眼前に見えるはずの阿蘇五岳も望むことができなかった。休憩所でしばらく待ってみたが、天候は回復せず、加えて寒さも募ってきた。やむなく、この日の宿である、久住高原のリゾートホテルに向かった。(以下、次号) 

《資料》 
・三好達治の詩「艸千里浜」-名もかなし艸千里浜:ヨジローより 
・米塚&スコリア丘:阿蘇山 Wikipediaより 
・阿蘇神社:阿蘇神社資料より 

《写真、上から順に》 
・草千里浜:2025年10月19日 筆者撮影 
・小諸・懐古園と千曲川:こもろ観光局より 
・米塚:2025年10月19日 筆者撮影 
・阿蘇神社・楼門:くまもっと資料より 
・大観峰展望所:2025年10月19日 筆者撮影 
・大観峰から見た阿蘇市一帯:2025年10月19日 筆者撮影