2026.02.09 小野 鎭
一期一会 地球旅 399 初めての世界一周旅行添乗
一期一会・地球旅 399 
初めての世界一周旅行添乗 

前号で初の世界旅行の添乗について概要を書いたがこれについて改めて書いてみたい。実は、10年以上前にこの「地球旅」を書き始めて間もなく、この旅行について書いているが、その後の見聞や社会情勢の変化などもふくめて当時(1969年)のこの旅行をもう一度、振り返ってみたい。 

この旅行は、社団法人全国自治体病院協議会様主催の諸外国医療事情視察団でした。1964年に旅行会社に入社、2年後、初の海外添乗は、多くの駆け出し添乗員と同じように香港台湾7日間でした。その後、もう一度、香港、さらにタイ、シンガポールなどアジア4回、欧州2回とわずか6回の添乗経験しかなかったにもかかわらず、33日間の世界一周添乗を命じられ、光栄に思った一方、果たしてうまくできるだろうかと大きな不安を覚えたことも事実でした。ロンドン、パリなどは2回行っているし、ドイツも都市こそ違え2度、加えてドイツ語も少しかじっていたのでドイツ語圏や医療事情には興味があるように思えた。それらの経験や期待を抱きつつデンマーク、スウェーデン、オランダ、オーストリア、それにスペインはいずれも初めてであった。何より、大きな期待と不安は、アメリカ。通常、米国に行くと言えば、太平洋を越えてサンフランシスコあるいはロサンゼルス、もしくはニューヨークへ直行? もちろん、ハワイはアメリカ合衆国であるが、ハワイはアメリカというより、多くの日本人はもう少し気持ちの上でも近く感じていたように思う。自分の場合は、欧州3週間を経て、大西洋を越えてニューヨークへ向かうというスケールの大きな旅行であり、初のアメリカ訪問であった。 

全体で60名くらいの大きな団体であり、全国各地の公立病院の院長、副院長や各部門の医長、看護師などのほかに薬剤や放射線、検査などパラメディカル、事務長など管理部門、あるいは自治体の医療行政担当などから成り、一つの大型病院ができるくらいの多彩な顔触れであった。団は大きく二つに分けて、私は25~26名から成る第2班を受け持った。各班は、2か所に分かれて医療施設などを訪問見学するほか、旅行行程は、日にちをずらして移動、ロンドンやパリ、ニューヨーク、サンフランシスコ、ホノルルなどでは同じ日に滞在したが、ホテルはほとんど別のことが多かった。1班は先輩社員が受け持ち、団の様子であるとか、私の仕事振りなどから指導、助言しながらこの長期添乗業務を全うさせようとしたらしい。
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ところで、これだけ全国各地の医療施設の要職にある人たちが1か月以上も席を空けることは、よほどのことが無ければ今の時代では考えられないと思う。わが国では、1950年代後半から70年代前半にかけて技術革新や重化学工業化により、経済が大きく成長 した時代であった。1964年に海外旅行が自由化され、この年、東京オリンピックの開催、東海道新幹線の営業開始など、日本は大きく躍進し、海外視察や研修なども次第に増えていた。海外旅行者数は毎年前年比20~30%以上伸びた時代でもあった。様々な業界で海外視察や研修が行われ、訪問国は、アジアでは香港・台湾に次いでタイやシンガポール、マレーシアなど、あるいはオーストラリアやニュージーランド、米国やカナダは勿論、何といってもヨーロッパなどいわゆる欧米先進国が多かった。当時は、東西冷戦の時代であって、中・東欧は社会主義国が多く、訪問先としてはまだ少なかったと思う。様々な業界で海外での視察や研修で得たものを持ち帰り、自分たちの分野でそこからさまざまな知識やヒントを得て成長に役立てていったと言えよう。このような風潮を作家堺屋太一氏は、エエトコドリ(良いところ取り)と称していた。 

70年代後半になるとオイルショックに始まる経済発展の鈍化、80年代後半には再び急成長のバブル経済、ところが90年代に入るとその日本経済は、バブル崩壊後の10年間もの長きにわたり低迷を続けており(内閣府:長期にあえぐ日本経済)、これらの海外視察や研修も急減し、海外旅行者数の伸びも鈍化していった。私が勤務していた、明治航空サービスは農業や建設、医療や福祉、教育関係の視察や研修、国際会議などに特化した団体旅行の取り扱いを得意としており、私はとりわけ医療や福祉・教育関係の団体の添乗が多く、一年のうち半分近く、150~180日くらい世界中を回るそんな日々を過ごしてきた。
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1969年当時の欧州路線は、東南アジアや西アジアを経由する南回りとアラスカのアンカレッジ経由の北回りがあった。 北回りは夜、羽田を発って、アンカレッジを経由して北極海上空を飛び、欧州のどこかに到着、所要は15~16時間位であった。70年代中頃になるとモスクワ経由シベリア路線などが主となってきた。その後、モスクワには寄らずに欧州のいずれかの都市へ直行も多くなり、10~12時間で到達できるようになっていった。しかし、ここ数年はウクライナ戦争などの影響でシベリア上空が飛べず、日本からアラスカ上空を飛び、中にはグリーランド上空を飛ぶ路線もあり、ヨーロッパまでは、14~15時間くらいかかることもあると聞く。
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話を元に戻すが、この時は、JAL401便で羽田を 発ち、アンカレッジを経由して、翌日朝、デンマークのコペンハーゲンに到着している。空港から町へ出て、市内見学、人魚姫像を見たり、市内中心部に立っているアンデルセンの銅像などを見て、ホテルにチェックイン。昼過ぎに部屋に入り、夕方まで仮眠、夕食では、これまた時差で食事中に睡魔に襲われて舟をこぐ人もいた。夕食後も、22時過ぎまで空は明るく、チボリ公園に入って散策など。緯度の高い北欧では、白夜に近い状態を初めて経験した。翌日はハムレットの舞台として名高いクロンボルク城を見に行ったような気がするが明確な記憶はない。携行日程表を紛失しているため、詳細な日程が分からないが添乗記録が残っているので利用した航空便から移動日だけは今も知ることができる。 

次いでスウェーデンのストックホルムへ。通貨は同じクローネであるが、デンマークとスウェーデンでは少し価値が違っていたと思う。ストックホルムは水の都ともいわれ、市庁舎は、中央駅のすぐ向かい側にあり、メーラレン湖に面しているという。市庁舎の中にある黄金の間というところではノーベル賞受賞者の晩餐会が行われるそうであるが、私たちが訪れたこの時代(1969年)では、まだ受賞者は、湯川秀樹と朝永振一朗の二人であり、ともに京都大学での同期生であることを現地ガイドが説明していた。 

翌日、病院見学があった。この視察団では、全部で10ヶ所くらい医療施設を見学していると思うが、視察した病院等の名前はヨーロッも1ヶ所、アメリカではAHA(アメリカ病院協会)のほか、1か所計2か所くらいしか覚えていない。ストックホルムでの病院は、Serafimer Lasarettet(セラフィメール病院)であり、通称、Serafenという大型病院であった。私は、これまでに海外で多分200ヶ所以上の病院など医療施設を見学しているが、これが初めての病院見学であった。スウェーデン最古の近代病院であり、1752年に設立された。それまでの慈善施設(Hospital)とは異なり、科学的な治療を行う「近代病院(Lasarett)の先駆けとなっていたとのこと。 長らくこの国の医学研究と医師養成の中心地であり、スウェーデンの医師にとってこの病院での研修は必須とされていた。
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しかしながら、カロリンスカ大学病院(Karolinska universitetssjukhuset )などの大規模病院の台頭により、1980年に主要な病院機能は停止したとのことで、私たちが見学して11年後に閉院されたのであろう。 日本の病院は患者としては訪問していたが、医師など専門家グループのお供をしての病院見学は初めてであり興味深かった。現地では、スウェーデン語と英語のできる日本人通訳者が付いていたので私は、病院側の説明者である医師などの名前を書きとるとか、通訳者が医学の専門語が分からなくて苦労している様子などを見ていると、将来的には自分もこのように添乗員であっても、同時に通訳もできるようになりたいという願望が沸き上がっていたことを覚えている。 

なお、セラフィメール病院について調べてみるとかつての病院の建物はストックホルム市庁舎の向かい側にあり、1983年以降、セラフェン地区救急室(kvartersakuten Serafen)として使われており、家庭医、理学療法士、小児保健センター、聴覚クリニック、予防接種クリニックなどが入居している。地図を見ると、かつての広大な敷地の一部はセラフィメール公園(Serafimer Parken)となっている。(以下、次号) 

《資料》 
・バブル崩壊後の10年間・・:内閣府:長期にあえぐ日本経済 
・Serafimer Lasarettet(セラフィメール病院):Wikipediaより 
《写真、上から順に》 
・昭和46年度(1971)海外医療事情視察団(33日間、世界一周:全国社会保険協会連合会):例として提示、後列左端が筆者(1971年9月、羽田空港にて) 
・アンカレッジ国際空港:e/Bay Australia資料より 
・チボリ公園(デンマーク・コペンハーゲン 1960年代):Hosted by Google 
・かつてのセラフィメール病院:現在はセラフェン地区救急室:Wikipediaより