2026.01.13
小野 鎭
一期一会 地球旅 396 大阿蘇から久住への旅(7)
一期一会・地球旅 396
大阿蘇から久住への旅(7)
ところで、久住高原と呼ばれる山上一帯を走りながら地図を見ていて気付くことは、くじゅう連山、久住山、久住高原、他にも飯田高原や瀬の本高原がある。高校の頃使っていた高等地図(帝国書院発行)では、久住山、久住高原、最新基本地図(同社発行)では、飯田高原が大きく表示されており、次いで久住山、くじゅう連山、久住高原とあり、昭文社の分県地図の大分県版でももちろんそのように表示されている。Wikipediaでは、九重山(くじゅうさん)も紹介されており、大分県玖珠郡九重町と竹田市久住町の境界に位置する山々の総称(地質学上の呼称)とされ、最高峰は、九州本土最高峰でもある中岳(1791m)とある。長者原ビジターセンターの説明では、「くじゅう地域は大分県にあり、くじゅう連山は、くじゅう地域の山々の総称であり、『久住山』はくじゅう連山のひとつ。また、くじゅう連山の北側に『九重町(ここのえまち)』、南側に竹田市久住町(くじゅうまち)があり、一帯は、『阿蘇くじゅう国立公園』に含まれている。」とわかりやすい。注意しなければならないのは、地質学上の呼称である。気象庁ではこれらの山々の総称を「九重山」としており、研究者の論文の多くもこれに倣っている、とある。地震や天候などで気象庁の発表があるときは、もしかすると「九重山」と紹介されることがあるかもしれない。山と渓谷社の資料でも、「九重山」として紹介されており、説明分を読み、添付の地図を見ると「久住山」と書かれている。これもちょっと混乱しそうだが、地質学上の呼称が標題として使われているのだろう。
くじゅう連山には10数個の火山体が東西13㎞、南北10kmの範囲に集まっている。標高にして1,700m前後のものが多く、西部には久住山はじめとする久住山系の山々が連なっており、東側には大船山(たいせんざん)を中心とする大船山系の山々が連なっている。(Wikipedia)この二つの山系の間に広がっているのが「坊がツル」の草原であり、「坊がつる賛歌」は、多くの人に親しまれている山の愛唱歌の一つであろう。
くじゅう連山地域にはいくつかの思い出がある。その一つが、山歩きと言おうか、登山というにはちょっとお粗末であったが久住山とほかに2つくらい登ったと思う。この時代、九州本土での最高峰は、久住山(1787m)とされていた。近年になって、中岳(1791m)が九州本土での最高峰として新たに紹介されている。高校時代のことで70年近く昔の苔むした話になる。当時、私は吹奏楽部に入っていた。3年生の夏休みであった。3年生と言えば、当時も大学受験に備えて夏休みも受験勉強に明け暮れているはずだが、我が家の家計が厳しく、進学をあきらめて高卒後は就職することと決めて、9月から就活に専念するつもりであった。吹奏楽部の部長でもあったリーダーのY君も同様であり、後輩のH君ともう一人、多分4人で「九重山への山歩きを計画していた。地理や世界史の担当であったM先生は、部の顧問でもあり、山歩きの話を聞いていたのでそのことに刺激されたのかもしれない。4人のうちの誰かが大型のテントを借りることができるということでそれを背負って行こうと勇んだ。食事は、家からコメを各自持参、当時の山歩きで流行っていた飯盒炊爨(はんごうすいさん)をして、野菜などは現地で仕入れようとおおざっぱな計画で出発した。
久大本線の豊後中村駅まで、そこからバスで飯田高原まで行き、そこから山歩きを始めたと思う。どこをどのように歩いたか今となっては記憶もほとんど残っていないが、久住山と星生山(ほっしょうざん)には登ったと思う。他にもどこかの山には登ったと思うがひたすら高原を歩いたことは覚えている。坊がツルキャンプ場にテントを張った記憶もあり、坊がつる賛歌という歌が歌われていたことを思い出す。食事作りは容易ではなく、煙に泣かされながら飯盒でご飯を炊き、持参した鍋にどこかで買ってきた野菜などを入れてカレーライスらしいものをつくり、それでも空腹にはたまらないほどのうまさであった。大船山(たいせんざん)にも登ろうと意気軒高ではあったが、テントや重いザックを背負ってカンカン照りの陽射しのもと、山歩きは楽ではなく、肩や背中がひりひり痛んだ。結局、無理は止めようということで、長者原温泉郷まで戻り、温泉に入って疲れをとって帰ろう、と3泊4日の山歩きは終わりだった。
大船山は標高1786mで久住山より1m低い。高校のM先生であったか、それとも別の人であったかは覚えていないが、かつて自分が大船山に上ったとき、頂上に高さ1mのケルン(石を積み上げた石塔)を作ったので久住山と同じ高さになっていると自慢話を聞いたことがある。ところが、これと同じような話を別のところで聞いたこともある。つまり、誰かが言い出した話が広まったものらしく、大船山に登った人が誇らしげに話す自慢話らしい。
長者原地域にはいくつかの温泉があり、私は、それよりも昔、祖父母から聞いていた寒の地獄に入ってみようとみんなで出かけた。疲労や皮膚病、神経痛などに効くとの効用も聞いていた。テントやザックを背負って連日の山歩きで疲労困憊であったし、話の種にもなりそうな冷泉であったので興味があった。実際に入ってみると3分と持たず、そばのストーブで身体を温めたことだけが今も思い出される。
私は、9月になって将来の進路について考えを改めて大学へ進学したいと父の承諾を得て、卒業後、上京した。一緒に山に登ったY君も将来的には進学したいと上京していた。彼ともう一人の吹奏楽部員であったY君と3人で下宿して、波乱に満ちた東京での生活が始まった。三人ともそれぞれ大学は違ったが、アルバイトで学費と生活費を稼ぎ、さらに山にもちょこちょこ出かけた。多くの苦学生がいたと思うので、自分もそれほど苦労しているとは思わなかった。そのころのバイタリティは我ながら驚くほどであった。尾瀬にも行ったし、富士山も登頂した。当時、歌声喫茶が流行っており、新宿の歌声喫茶にはほとんど毎週、通っていた。ロシア民謡であるとか、北上夜曲、山男の歌、山の娘ロザリアなどのほか、坊がつる賛歌なども少しずつ歌われていたような気がする。実際に坊がツルに行ったことがあり、ちょっと誇らしい思いであった。その後、この歌は、芹洋子さんが歌って全国的に知られるようになり、NHKの紅白でも歌われたと記憶している。
Y君は、神田の古書店でバイトをしながら苦学していたが、それから数年後、楽譜関係の会社を興していた。彼は残念ながらかなり前に旅立ったが、その会社は、現在はD出版社として、音楽関連図書を出版・販売しておられる。(以下、次号)
《資料》
くじゅう連山:長者原ビジターセンター、Wikipedia、山と渓谷社 各資料より。
《写真、上から順に》
・緑の大自然(くじゅう連山):大分県竹田市資料より・坊がツル湿原とくじゅう連峰:長者原ビジターセンター資料より
・大船山(たいせんざん):Wikipediaより
・吹奏楽部一同(前列左から6番目が筆者、その右がY君、前列右から6番目が顧問のM先生。当時は、教室や部室内では裸足(はだし)も多かった。):昭和34年(1959)夏 福岡県立嘉穂高等学校卒業記念アルバムより