2014.11.05 小野 鎭
小野先生の一期一会地球旅㉙「国際精神薄弱研究会議参加旅行に添乗して」

一期一会地球旅 29

国際精神薄弱研究会議参加旅行に添乗して その2 イスラエル(1)

1976年のIASSMD(国際精神薄弱研究協会)の世界会議へ参加されたお客様のお世話は初めてであったが、お陰様でご好評をいただくことができた。さらにうれしいことには、この組織は主として研究職の方が多く、ほかに親や家族、育成団体などの組織があること、またアジアでは、アジア精神薄弱会議が1年おきに行われており日本からもかなりの数の方が出かけられるであろうとの情報を得た。これらのことについては、改めて書くこととして、今回は次に担当した1979年にイスラエルのエルサレムで行われたIASSMD会議への参加旅行について書いてみたい。 ワシントンDCでの会議の閉会式で、次はエルサレムで皆様をお待ちしています、とイスラエルの関係者からの呼びかけがあった。しかしながら、イスラエルというとどうしても紛争であるとか、治安が良くないらしいとか、つまり旅行面からは否定的な情報が多く飛び交っていたし、1972年には日本赤軍の過激派がテルアヴィヴ空港で乱射事件を起こして多数の死傷者を出しており、日本人に対するイメージは芳しくないのではないかとの先入観があった。第3次中東戦争、次いで第4次戦争(ヨム・キプール戦争)が終わってからすでに数年が経過しており今では国情は安定している。周辺国との関係も比較的落ち着いている。観光客もかなり訪れており、心配はないのではないか、と航空会社や現地手配会社からの説明を得ていた。とは言いながらも、JASSMDの事務局長である高橋先生にイスラエルはどうされますか?とうかがっても今一つ熱意あるご返事はいただけなかった。事実、旅行に於いては、イスラエルに行くときはアラブ諸国を経由して同時に訪問することは難しいという話も聞いていた。いわば、イスラエルだけが完全に別扱いされる状態であった。そんなある日、ワシントンの会議にも参加された三木安正先生(元文部省視学官&東大名誉教授)がイスラエル大使館の高官とも懇意であり、大使館で夕食へのお招きがあった。そして、大使ご自身から国情について説明があり、世間では心配されている方もあるが、実際には安全であり、どうぞ安心して訪問してください、とのお誘いがあった。 そんな背景もあって、せっかくの機会だから思い切って会議参加とイスラエルへの旅行を計画しようということになった。会議は首都エルサレムで開催されるが空港はテルアヴィヴである。そこで、アテネに行ってそこからテルアヴィヴへ向かおう、という計画を立てた。旅行手配は、スイスに本拠を置くランド・オペレーター(地上手配会社)から現地情報を取り寄せながら、外務省の広報部門を通じてさらに安全情報を確かめながら準備を進めていった。こうして、協会からは会員に対して会議と旅行参加を呼びかけられたが、やはり我々が思う以上に多くの人は二の足を踏まれたらしく、結局10名の参加しか得られなかった。高橋先生、三木先生ご夫妻、さらには三木先生が懇意にしておられた北星大学のK学長も参加された。学長は敬虔なクリスチャンでもあった。 こうして、1979年7月27日に出発、南回りでマニラ、バンコク、クウェート経由アテネへ向かった。この年の前後に数回アテネは訪れていたので、この時は、皆様に紺碧のエーゲ海のミニクルーズをお勧めし、喜んでいただけた。そして、いよいよテルアヴィヴへ向かった。入国審査はいろいろな国で幾度も受けているが、今回は流石に緊張して入国審査官の前に進み、旅券を提示した。係官からの質問に、会議出席で約10日間滞在すること、期間中にエルサレムや死海なども見学するつもりなどと答えたような気がする。こうして難なく入国して税関検査も受けて外に出ると、予め手配済みのガイドがグループの案内板を持って立っていた。空港にはかなりの数の人が到着客を待っていたと思うが、我々は荷物を持って早々に貸切バスに乗り込み、約60㎞先のエルサレムに向かって走り出した。乾燥して赤茶けた大地が広がり、オリーブ畑やところどころに畑作地があり、散水されて小さな野菜のようなものが植えられていたように思う。次第にバスは高台に上がっていきやがてエルサレムの市街に入っていった。通りのあちこちには銃を持った兵士が立っていたが、騒動が起きたからというよりは治安維持のために立っているのであり、ごく普通の風景だとのガイドの説明に納得しながらも日本ではおよそ見かけない経験にやはり緊張が高まったことを覚えている。第3次中東戦争(1967年)の後、エルサレム市街の大部分をイスラエルが支配していたが、町外れの丘の上の住宅街の向こう側はヨルダン領であると聞いたような気がする。
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会議は、新市街にあるエルサレム・ヒルトン・ホテルで行われたが、今回は人数も少なく、ランクを少し下げた別のホテルに9連泊して毎日タクシーで会議場に通った。夕方、その日のプログラムが終わるとホテルに戻り、一休みしては旧市街に行って夕食をしたり、観光スポットやカスバ(要塞と居住地を一体としたアラブの旧市街)のような建物が密集する中心部の小さな通りに土産物店や飲食店などの続く通りを散策したりすることが次第に毎日の習慣になっていた。今回のメンバーの一人に九州からご参加のO氏がおられ、氏はかつてキブツ(イスラエルの国家建設を目指す若い世代を主とした共同体)にも
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滞在した経験をお持ちであった。 彼はヘブライ語も少しできたし、イスラエル事情に明るい人であった。そして、食事では、現地のレストランや屋台などでコーシャ始め怪しげな食事にも案内してくれた。
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エルサレムは、キリスト教だけでなく、イスラム教とユダヤ教の聖地でもある。イエス・キリストが磔刑に処せられたゴルゴダの丘と復活を遂げた墓地を含む地に建てられた聖墳墓聖堂はキリスト教徒にとって聖地である。また、古代イスラエル国の都であったエルサレムには神殿があったがローマ帝国の属領とされたため、神殿はローマ軍に破壊された。 そして、ユダヤ人は世界各地に離散(ディアスポラ)し、市街を取り巻く壁の一部が「嘆きの壁」と呼ばれるユダヤ教の聖地となった。7世紀には、イスラム教徒がエルサレムを支配するようになり、市街の中ほどにある岩の上から開祖
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ムハンマドが昇天し、そのあとに「岩のドーム」が建設されてイスラム教の第3の聖地となった。巨大な金色のドームの中には、長径20m、短径10m位であっただろうか大きく平たい岩があり、信者が熱心にお参りしていた。 また、旧市街の中には、ヴィア・ドロロッサVia Dolorosa という曲がりくねった階段状の道がある。イエスが十字架を背負わされてこの道を歩いてゴルゴダの丘へ上らされた、といわれているところである。重い十字架を背負って、幾度も転びながら歩を進め、ベン・ハーが差し出した柄杓(ひしゃく)に入った水を飲んだのはどのあたりだったのだろう、などと興味津々で幾度も歩いた。観光客だけでなく、巡礼の人たちも行ったり来たりして朝から夕方まで賑わっていたようである。
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また、市街地の後ろには丘が連なり、これがオリーブの丘であり、その麓にゲッセマネの地がある。イエスが「最後の晩餐」の後、祈りを捧げたところといわれている。子どものころ、郷里で近くのお宅に毎週来られる牧師さんから聞いた話にでてきた地名や人名などを数十年ぶりに思い出し、団員のお一人である北星大学のK先生から現地でお話しをお聞きしていると興味が一層深まっていった。 こうして、エルサレムの新旧の市街を滞在中は様々な角度から見聞していたが、ここまで来たらやはり死海やベツレヘムなど周辺各地も訪ねてみたいということで日帰りツアーをすることになった。勿論、筆者も同行させていただくことになり興味深い一日を過ごしたが、これについては、次回とさせていただきたい。 (資料と写真 上から順に。 写真はいずれも1979年8月撮影) 1)エルサレム旧市街は一辺が約1㎞の正方形に近い広がりであり、その中は、キリスト教徒地区、イスラム教徒地区、ユダヤ教徒地区、アルメニア人地区、岩のドームに分かれている。(資料 借用) 2)会議期間中にテルアヴィヴの施設を訪問し、現地関係者との懇談があった。 3)エルサレムの旧市街を取り囲む壁のうち、西壁部分は「嘆きの壁」と呼ばれており、ユダヤ教の聖地となっている。 4)エルサレムの旧市街の中、「岩のドーム」一帯はイスラム教の聖地となっている。 5)ゲッセマネの地は、エルサレム旧市街を出たところにある。

                             (2014/11/03)

                                 小 野  鎭