2014.11.12 小野 鎭
小野先生の一期一会地球旅㉚「国際精神薄弱研究会議参加旅行に添乗して」

一期一会 地球旅 30 国際精神薄弱研究会議参加旅行に添乗して その3 イスラエル(2)

前回のワシントンで行われたIASSMD世界会議では、会議中に特別セッションなどが組まれたが、今回は、そのようなプログラムはなく、先生方はもっぱら興味あるテーマを選んではそれぞれに分科会などに参加されていた。  そこで、筆者は毎日会議事務局に行っては、分科会の会場や会議の最新情報などを集めて皆様にお伝えするなど裏方として動いた。その一方、夕方のオフの時間の過ごし方について情報を探ったり、オプショナルツアーのヒントを収集したりしていた。そして、滞在も後半になったある日、死海などを見に行こうということで日帰り旅行をすることになった。
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8月の始めとあって、炎暑の中をタクシー3台で出かけた。本当は、ペテロがイエスに会う前に漁夫であったと言われているガリラヤ湖にも行きたかったがそれは距離的にも、時間的にも、それにも増して、安全面からむつかしいことであった。そこで、死海とマサダなどを訪ねることになり現地の英語ガイドに先導してもらった。市街地を一歩抜けると赤茶けた大地が広がり、ところどころにキブツの農園らしきものがあった。やがて、分かれ道に標識があり、その道を進んでいくとJerichoへ、と書いてあった。世界で一番古い町といわれているあのジェリコである。 そこには行かずにさらに進んでいくと次第に道路は斜面を下り、右側の岩山の壁に海抜0mと書かれていた。そしていよいよ海面下の土地へ至ることになった。やがて前方には、不気味とさえ言いたくなる白濁したような緑の湖面が広がって来た。
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岸辺には直径10~15㎝くらいであろうか茶色っぽい岩の塊のようなものがあちこちに転がっていた。塩の塊だそうで、死海は海水の何倍も塩分が濃い塩湖であり、飛び込んでも身体が浮き上がりSuicide(自殺)はできないよ、とガイドはジョークを交えながら説明してくれた。湖面の向こう側はヨルダンだとのことであった。クーラーもついていないタクシーは窓からは熱風が吹き込んでくる。多分、気温は45℃をはるかに超えていたらしい。とにかく暑かった。
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死海の湖面は海抜‐400m、地球上で一番低い地面にある湖である。岸辺のレストランで昼食を摂り、ロープウェイで小高い丘の上に上がった。およそ人の住む世界とは思えない荒れ地が広がり、やがて頂上に至るとマサダの古戦場跡である。今は、国立公園として整備されているらしいが、我々が訪れた当時は、小さな管理事務所らしきものがあるのみであった。 ところどころ修復されてはいたが、あとは荒れたままの砦跡といったおもむきで、Massadaと書いた案内板があり、ヘブライ語と英語の説明があったと思う。紀元1世紀、ユダヤの王ヘロデが築かせた離宮兼要塞跡である。ローマ帝国の圧政によりマサダにこもった960人のユダヤ人がローマの捕虜となることを拒んで集団自決を遂げた地である。
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この要塞跡はユダヤ民族にとっては、結束のシンボルともいうべき場所になっており、今では、イスラエル国防軍の入隊宣誓式がここで行われるそうである。当時はそこまでの由来や説明は分からなかったが赤茶けた岩山の草木一本生えていない荒れ地に2000年近く前そのような歴史があったとは驚きであった。この地はその後、国立公園となり、2001年には世界遺産として登録されている。 マサダからの帰り道、エルサレムの郊外にあるベツレヘムに立ち寄ってイエス・キリスト生誕教会を訪れた。小さな教会であったと記憶している。飼い葉桶のなかに眠る幼子イエスの話はよく聞いていたが、その馬小屋の跡にこの教会が建てられたそうでそのことを素直に信じつつ祭壇のロウソクに灯をともしたような気がする。あれから35年が過ぎ、いまベツレヘムはイスラエル国内ではなく、パレスチナ自治政府が管理する地区に含まれている。ここは、パレスチナ自治政府による申請に基づいて「イエス生誕の地:ベツレヘムの聖誕教会と巡礼路」として2012年に世界遺産として登録されている。パレスチナは、国連には加盟していないがユネスコには加盟している。余談であるが、このことを巡って、アメリカは一時、ユネスコへの年次分担金の支払いを拒否していたそうである。国際政治はむつかしい。 ところで、エルサレムであるが、「エルサレムの旧市街とその城壁群」として1981年に世界遺産となっている。 しかし、これはイスラエルではなく、「ヨルダン」が登録を申請したものであり、この世界遺産の所在は、「イスラエル」という国名ではなく、「エルサレム」として世界遺産リストに登録されている。この遺産は登録の翌年(1982年)、そしてベツレヘムも登録と同時に、ともに危機遺産リストに加えられて今日に至っている。いずれも民族紛争や宗教紛争が理由である。争いの絶えないイスラエルとパレスチナなどこの一帯の不安定な情勢は2000年以上も前から繰り返されてきた民族と宗教紛争が根底にあると思うが、米国など様々な国の仲介で和平が訪れたかと思うとそれがまた崩れ、多くの人たちの血が流され、尊い人命が失われていく。地政学上からも、多分、これからも繰り返されていくのではあるまいか。IASSMDの国際会議もさることながら、平和な島国である日本国に住んでいるとなかなか理解しにくい民族や宗教の違いからくる争いの恐ろしさということを考えさせられたエルサレム滞在であった。 (資料:写真 上から順に。 いずれも1979年8月に撮影)  エルサレムの旧市街を取り囲む城壁、遠くに「岩のドーム」が見られる。  死海に至る道  死海の湖面、対岸はヨルダン  マサダに至るロープウェイ  マサダの古戦場跡

                           (2014/11/10) 小 野  鎭