2015.04.07 小野 鎭
小野先生の一期一会地球旅㊿「海外児童福祉研修団に添乗して その2」

一期一会 地球旅 50

海外児童福祉研修団に添乗して その(2) 素晴らしい方々との出会い

資生堂財団では、昭和56年度(81年)はオーストラリアへ派遣されることになった。前年の経験などを活かしてメルボルン郊外のカンタベリー市にある児童養護事業体を主たる研修の場として準備を進められた。この年の報告書を改めて拝見すると、団長飯田進氏が当時の児童養護の在り方について次のように様々な課題があることを述べておられる。「80年代のこの頃、児童養護について将来の要望を考えるには従来のワンパターン式の養護施設ではすでに児童の持つニードに適切な対応が困難であるように思える。従って、硬直化した傾向から思い切った発想の転換をさせる必要があるのではないだろうか。子ども一人ひとりを個の人格として尊重し、権利の保障という行為がその背景にあるような気がする。わが国の養護施設に関係のある事柄について目を転じてみると施設構内居住型の児童養護は、過去15年間大舎制から小舎制へ、大規模収容から小規模のそれへ大きく変わり、地域分散小舎へと移行してきている。この時代の社会福祉の動向は、社会福祉施設の地域化、小型化であるといわれるが、もとより重要なことは、施設の形態論をもって児童養育のすべてに向かうことでなく、施設児童にいかに望ましい養育が保障でき、それをいかに実践するかである」 今回の海外研修は、このような背景に基づいて、1)分散小舎制に至る史的考察、2)その運営機構、 3)養護内容とその実態、 4)施設と地域社会との関係という4つのテーマを柱として、要養護児童の施設養育形態、及び、地域家庭の崩壊・親子分離の防止に先駆的な活動と実績をつんでいるオーストラリアはメルボルン郊外にあるセント・ジョンズ少年少女の家(St. John’s Homes for Boys and Girls)を中心とした3都市12施設での研修が行われた。 考えてみると、筆者は学生時代に練馬区にある児童養護施設に4年近く勤務したが、それは終戦後の混乱期がほとんど収まった昭和35年(60年)からであった。それでもまだ戦争で被災した家族の子どもたちもおり、施設形態は大舎制の名残があったような気がする。男児70人の定員で、各部屋の広さは20畳くらいであっただろうか、各部屋に幼児から中学生まで、7人前後が年齢的には縦割りにグループ分けされて起居していた。児童は、地元の小中学校に通学していた。
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一方、自分自身と言えば児童福祉や養護については何も知らずに施設での仕事に就いていた。正直なところ、学費を稼ぎながら生活をしていくためにこの施設に住み込んで働くことが最高の条件であったといえよう。この分野での専門的な知識や技術もなく、それでいて書記から経験を踏んで児童指導員へと採用していただいたのであった。それでも、施設内で勉強したり、東社協児童部会などの研修を受けたりしながら、少しずつ専門知識を身に着けるように努力をした。次第に児童養護という分野についての興味も徐々に深くなっていたと思う。しかし、64年の卒業と共にかねてよりの希望通り旅行会社に就職した。そして4年余り後に明治航空サービスに移り、専門視察を得意とする業務に勤しんできた。養護施設に勤務していたころから⒑数年が過ぎて、偶然ではあるが資生堂財団で派遣される海外児童福祉研修団のお世話をさせていただくことになった。個人的には昔のことを思い出しながら、今日的なテーマとして少しでも多く理解しようと努めながら、オーストラリア研修へお伴した。 メルボルンは、オーストラリア大陸の南東部分にあるビクトリア州の州都にして人口200万余、この国ではシドニーに次ぐ大都市である。都心から車で3~40分であろうか、カンタベリー市がある。いわば、メルボルン市のベッドタウンという趣の郊外都市であり、街路樹だけでなく、公園もたくさんありゆったりした佇まいの美しい町であった。セント・ジョンズ・ホームズは、英国国教会派に属する民間福祉事業体である。設立は、第1次大戦後間もなく、1921年に英国で溢れ出る戦争孤児がオーストラリアに連れてこられたことにより設立された伝統ある施設であった。66年にそれまでの大舎制養護形態を改めて、順次グループホームシステムに移行、75年から地域分散型の児童養護を押し進め、他方では予防型児童福祉であるケアフォースを開始されている。このような流れと財政等について、施設長他、各部署の専門職が4日間にわたって説明を受け、各施設や様々なサービスの現場を見学した。
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特に興味深かったのは、ファミリー・グループ・ホーム(Family Group Home) で、主として学童を対象としているコッテイジ(Cottage)と低学年児を対象としているユニット(Unit)があり、内容としては、家庭的雰囲気の中で児童を擁護するものである。親の疾病、離婚、虐待、親の手に負えない児童が対象とされており、地域分散型と施設構内型があった。それぞれのグループホームには6~7名が入り、Cottage Motherが居て、児童はこのホームで過ごし、多くは地元の学校に通学するというのが普通であった。 いわば、少し大きな家族といったところであろうか。 ケアフォース(Care Force)も興味ある存在であった。 要保護児の発生を予防し、地域の家庭児童の養育に関する援助をするために専門職による福祉サービスを行っている。ソーシャルワーカーがリーダーを務め、指定区域内の家庭における児童の養育に関する相談、指導=たとえばカウンセリング、養育費など経済的問題に関すること、緊急一時保護などがあった。 特に、エスニック・ケア・フォースは、多くの国からの移民が多いこの国においては特に興味深い存在であった。そして、もう一つは、インターチェンジ(Interchange)である。 障害児を持つ親が、一時的な休息や自由な時間が得られるように、週末や休日に障害児の養育を委託できるボランティア家族を募集して、その家族に専門的な指導を行い、このサービスを普及させていた。この仕組みには個人的にも関心が高く、後年、重度の障がい者のグループをオーストラリアへご案内するときの大きなヒントとなっている。 この事業体では、地域が抱える様々なニーズに応えることと児童養護の観点から予防福祉事業を含む幅広いプログラムとサービスを展開されていたことが興味深かった。その上で今も強く印象に残っているのは研修団を受け入れて密度の濃いプログラムを作成し、終始指導をしてくださったお二人の存在である。
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先ず、施設長のイアン・G・エリス師(Rev’d. Ian G. Ellis) 温和で心の温かい方であった。メルボルン大学で神学を収められたた英国国教会の聖職者であるが一方では、児童福祉の専門家としてSt John’s Homes for Boys and Girls の総合施設長として幅広く活躍されていた。氏は、1983年に行われた児童養護施設職員国内研修の特別講師として資生堂財団で招聘され、熱海にある資生堂研修センターで特別講義をされた。 この時も筆者が命を受けて通訳と熱海での案内役を務めた。また、この時の講演原稿の翻訳版が財団で発行され、「世界の児童と母性」第16(?)~17号(1984年10月)に掲載されている。
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もう一人は、財務部長のフランク・ビア氏(Frank Beer, Mr.)である。エリス師とは対照的に豪放磊落、そして陽気なスコッツ(スコットランド人)であった。彼は、長年、世界的に有名な金庫や警備会社として有名なChubb勤務経歴の持ち主。 セント・ジョンズ・ホームズはビクトリア州でも代表的な児童福祉事業体であったが、「福祉もビジネスである」という捉え方が為されていた。そこで、財務管理部門をより強固にするために専門家を置き、施設次長兼財務部長としての要職を担っている方であった。彼は愛妻家で、耳の不自由なロッティ夫人をいつもとても大切にしておられた。 研修団は、メルボルンで週末を挟んで9日間、セント・ジョンズ・ホームズでの集中研修のほかにビクトリア州政府や関係機関の訪問や民間施設も見学された。その後、キャンベラとシドニーでさらに視察されて全14日間の研修を終えられた。団員は、多くのことを学ばれたことが報告書からもうかがえる。個人的には、約10年前に教員海外派遣でメルボルンを訪れていてオーストラリア英語に目を白黒させた。しかし、今回はエリス師やビア氏の支援もあって連日のプログラムもほとんど通しで通訳任務も果たすことができ、ほっとしたことを覚えている。
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財団では、83年の国内研修でエリス師を招かれたほか、85年にも再度オーストラリアへ研修団を派遣しておられる。この時は、タスマニア州各地が主たる研修の場であったがそのあと、セント・ジョンズ・ホームズを訪問されている。前回の研修訪問で得られた多くのことが報告されており、それを事前に学ばれた後、メルボルンに臨んでおられる。この時に同行された常務理事杉本勇氏は、短期間ではあったが、中身の濃いものを学ぶことができた、と次のように記されている。「再度、セント・ジョンズ・ホームズを訪問させていただきました。立派な福祉の精神と活動内容には敬服させられます。そして、理事、幹部、職員の皆さんが我々に与えてくれたご好意とご指導は、文字通り格別のものでありました。中略。前回56年度(81年)研修の報告書が事前にしっかりした知識を与えてくれ、十分な研修と考察の基礎を築いてくれたことを申し添えなければなりません」  研修団員はその都度新たなメンバーであるので基礎からの出直しとなるが、継続して同じ施設を訪ねることでより多くのことを幅広く学ぶことができるのも大きな利点であろうと感じている。 こうして、81年から4年の間にエリス師やビア氏などに出会ったお蔭でその後、医療事情視察団のため病院訪問の紹介をいただいた。さらには1988年と翌年にも重度の障がい者の方々とその家族などのグループをメルボルンにお連れすることについて親身になって協力してくださった。 これが契機となって、「障がい者旅行」に力を入れることにつながっていった。このことは、別のかたちで改めて紹介させていいただくとして、資生堂財団で主催された児童福祉研修団の二度にわたるオーストラリア、とりわけメルボルン訪問のお手伝いをさせていただいたことは本当に有難いことであった。そして、ここで得た素晴らしい方々との出会いは私にとってまさに「人財」であり、今も感謝している。 (資料 上から順に) 児童養護施設に勤務していたころ (錦華学院 1963年1月) セント・ジョンズ・ホームズでの研修(Ⅰ)構内見学 (1980年11月) イアン・G・エリス師(研修の合間の週末 近郊へのピクニック 1980年11月) フランク&ロッティ・ビア夫妻 セント・ジョンズ・ホームズでの研修(Ⅱ)講義 (1985年3月)

(2015/4/6)

小 野  鎭