一期一会 地球旅 86
アジアの平和と日韓障害者文化交流のための愛の音楽会 その3
水原(スウォン)でのコンサートが無事終わり、短期第1班は翌日午後には帰国という慌ただしさであったが楽しい思い出を携えて帰路に着かれたと思う。私事で恐縮であるが、この時は、家人も合唱に参加していたし次男も応援に来ていた。加えて、故郷(福岡県飯塚市)在住の母が妹と共に聴きに来てくれた。板付からソウルまでは東京よりも近い距離であるが、母にしてみれば、初めての海外旅行であった。戦前、釜山(プサン)近くの鎮海(チネ)に住んでいたことがあり、その後、日本に戻って横須賀で私が生まれている。鎮海は軍港としても知られており、横須賀にはかつて鎮守府があった。海軍軍人であった父はもうずいぶん昔に他界しているが、私を命名するにあたっては多分そんな理由があるのだろうと思う。鎮海ではなかったが、母にしてみれば一度は韓国を訪ねたかったのであろう。そんな母の短い滞在ではあったが、コンサート開催の事務局担当である自分には個人的な時間はほとんどなかった。到着時に金浦空港まで迎えに行けたことをわずかな親孝行として自分自身へ言い訳していた。86歳の母が来てくれたことはとてもうれしかった。母が旅立ってすでに5年になるが、父に韓国へ行ってきたことを話しているかもしれない? メイングループの多くの人たちは休養したり、ソウルの市内見学や買い物などに楽しい一日を過ごされた。誠信(ソンシン)女子大の学生たちが通訳ボランティアとして案内してくれたことでとても有意義な時間を過ごすことができたと好評であった。そして、その翌日は、春川(チュンチョン)への1泊旅行、先にも述べたが、当初は鉄道で行くことが予定されていたが、これはバス2台を連ねて出かけることになった。このことは、旅行団到着時にすでに事情を説明して了解を得ていたので混乱はなく、大都市ソウルからのどかな江原道(カンウォンドウ)への旅はむしろ期待が大きかった。とは言え、日本の旅程管理という観点からはおよそ考えられないことであった。手元に残っているこの時の携行旅程には、4月22日、ソウル(清涼里駅)~春川 列車で移動(約2時間)と記載されている。当時のソウル~春川には高速道路はまだなく、いくつかの町や田園地帯と丘陵地を抜けて2時間余りのドライブ、初夏間近で緑濃く花々が咲き乱れた美しい風景が広がっていた。コンサート後の懇親会などで歌おうと練習してきた「故郷の春」の歌詞そのもの、まさに災い転じて福となった、そんな言葉さえ当てはまる嬉しい変更であったといっていいかもしれない。美しいチャレンジ、フロイデ!
嬉しい心でなくては歌うことのできない歌、合唱交響曲。頭も腕も足も自分の思い通りには動かすことができませんが、彼らは顔いっぱいに天使の笑みを浮かべ、一生懸命歌っていました。笑って泣いて、教えて習って、何がどう違うのかわからなくても、教える先生と喜んで習う子どもたち。愛の教室には魂の歌が響き渡っています。
“ダイネ ツァウベル ビンデン ヴィーデル”冬の間一日も休まず、数千回は歌った歓喜の歌です。すでにリハビリテーション施設の窓の外にもサクラが咲き、白い花びらが歌に耳を傾けています。ひと言、ひと言、先生の口のかたちから学び始めた“ダイネ ツァウベル ビンデン ヴィーデル”がいつの間にか歌に変わっていくことが、彼らの新しく生まれた楽しみです。
(中略)
障害者のための愛の声インターネット放送 専務理事 李 銀景(イ・ウンギョン) (原文 ハングル 訳 戸田志香)
キョンフィ 名前を聞いてもキョンギ、年を聞いてもキョンギ、 キョンフィは僕の友達の名前です
コスモスが美しく咲いていた日、韓国国立芸術学校 舞踊院 教授 禹光赫(ウ・カンヒュク) (原文 ハングル 訳 戸田志香)
小野モリ子
韓国での2度のコンサートを終えて姥山代表はその感想とそこから生まれた新しい活動についてのゆきわりそうニュースへ一文を寄せておられる。それは次号でご紹介させていただこう。 (資料 上から順に) 春川・斗山リゾートにて 「韓国の春を描く」 馬場俊一氏 描く(2002/4/23) ソウル・芸術の殿堂でのコンサート (2002/4/24) 李・銀景女史と (2002/4/20) 詩「キョンフィ」 愛の音楽会 プログラムより 禹光赫教授 水原の京畿道文化会館にて 前列 左から大島さん、母(小野モリ子) 後列 右から健介、新明さん、菊子、ほか(2002/4/20)(2015/12/14)
小 野 鎭