2022.02.22 小野 鎭
一期一会 地球旅 209 イタリアの美とスイスの絶景を訪ねる旅(1)

一期一会 地球旅(209) イタリアの美とスイスの絶景を訪ねる旅(1)

 初めてイタリアを訪れたのは、1966年11月下旬であった。振り返ると56年前のことになる。
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今ではほとんど耳にしないし、見かけないBoeing 707のチャーター機でロンドンに降りた。初めてのヨーロッパであった。二日滞在してドーバー海峡を渡って、ベルギーのオステンドからブリュッセル、ドイツのケルン、ハイデルベルク、そしてスイスを抜けてミラノからフィレンツェを経てローマに至った。さらに足を延ばしてナポリで折り返し、ピサ、ジェノヴァを経て南仏からパリに到る25日間の旅、全行程5500km。145人の団体で添乗員が4人、そのうち自分は香港2度の添乗経験しかなく、初めてのヨーロッパであった。所謂西欧主要国をじっくりバスの車窓から眺める旅。3台の貸切バスを一人ずつ受け持ち、大都市から小さな田舎町、都市部から田園地帯、山岳地帯を抜けるなど印象深いものであった。
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夢にまで見ていたヨーロッパは、見るもの聞くもの初めて。それも点から点を巡る航空機の旅行ではなく、時間はかかったが、毎日、陸路を移動するので途中の景色の移り変わりもよくわかった。使われる言語、食事、国境ごとに旅券検査を受け、今と違って、国ごとに通貨が変わっていくなど珍しさが一杯。毎日が新鮮な驚きと喜びであり、物の見方や考え方が少し広がったように思える感動の旅であった。苦労したのは市内観光。ロンドンでは、日本人の留学生らしい青年が日本語でガイドしてくれたが、それ以外はどの町でも現地人による英語での案内。これを添乗員が日本語に訳して説明することが必要であった。各地の歴史や観光スポットについての知識は豊かではなく、それ以上に英語は未だ達者ではなかったので毎日が目を白黒させる苦労の連続であった。 各地では、夕食が終わり、自分の時間になると部屋に引き上げてスーツケースを開く時間も惜しんでタクシーで翌日の市内観光の見どころ2,3か所を周って下調べ。
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ホテルに戻っては、わずかばかりの資料や航空会社から入手した都市案内などを拾い読みして翌日に備える。添乗日当はほとんどタクシー代で 消え、睡眠時間はわずかでありバタン、キューという有様であった。イタリアでは、レオナルドやマイケルアンジェロが連発され、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロを指していることがわかるまで少し時間がかかった。日本で1964年4月1日に海外旅行が自由化されて観光旅行に出る人も徐々に増えていたが、ヨーロッパへの旅などなどは金額的にも高根の花。この時の旅行代金は、お一人38万5千円、自分の給料は、2万円少々であった。ロンドンやパリなどでの市内観光の案内はもっぱら日本人留学生であるとか、現地在住の日本人などによるガイドであったがまだまだ不十分であり、多くの旅行先では現地人による英語のガイドが多かった。添乗業務中、現地案内はかなり大きなウェイトを占めることになるので勉強をしておかないと不十分な仕事しかできない。恥をかくのは自分であり、評判も良くない。会社への業績にも響くと思い、添乗業務を重ねるについて次第に強く意識するようになっていった。 さて、2000年頃までに海外添乗はちょうど200回を数えていたが、その中でもヨーロッパが半分以上であった。とは言いながら、イタリアはそれほど多くなかった。
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自分が添乗していたのは視察や研修などが多く、欧州で言えば、英独仏スイスや北欧が多く、イタリアが目的国になることはそれらの国と比較すると少なかった。それでも週末などを観光に充てることでイタリア、特にローマを含めるように日程を組んだことも多かった。さらに日程に余裕があれば、ナポリ&ポンペイ迄含めることもあった。日本的団体旅行の特徴は、一つの国や町をじっくり見ることは少なく、駆け足旅行が多かった。それでも、ローマではサンピエトロ大聖堂やコロッセオ、パンテオンなどは良く回っていたし、個人的にも興味深い観光スポットであった。フォロ・ロマーノ一帯の遺跡は、古代ローマの「へそ」にあたるところだとガイドはカンピドリオの丘の上から見下ろし、絵葉書などを示して、古代の想像図と今の様子を対比しながら説明し、それに耳を傾けるというのが一般的であった。この場所の重要さは初期の添乗時代はあまり意識することもなかったが、後年、世界遺産を勉強するにつけ、もっと丁寧に見ることの大切さを思うようになっていった。 初めて、永遠の都ローマを訪れてすでに半世紀以上が過ぎているが、市内見学をするたびに、コースが徐々に狭められて行くとか、訪れる観光スポットが少なくなってきたことを感じるようになった。
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初めての人はそんなものだと思うだろうが、昔を知る者にとってそれはちょっと残念な気もするが仕方のないことであろう。それはローマに限らず、パリなどでも同じことが言える。理由は、古代建造物など名所旧跡や大聖堂などを保護保全するために周囲の道路を狭めたり、大型バスなどが入れないようにして歩道部分を増やしたり、緑地で囲んだりするなど景観保護の観点からという理由が多いと思う。結果として駐車場が遠くなり、そこに至るまでの歩行距離が長くなる。交通量が増えて、渋滞のため、移動時間が長くなることもある。観光客が増えて、特に入場観光は待ち時間が長くなるとか、入場制限が増えるなどの理由も多いと聞く。いずれも時代の流れを感じる様相である。 イタリアなど南欧諸国でのもう一つの特徴は、現地人ガイドのほかに、日本人ガイドが通訳として着くという格好である。英語などであれば、現地人がそのまま英語で案内するのでそのようなことも生じないであろうが、現地人であって日本語でガイド業務ができる人はそれほど多くは無く、現地人の労働力を保護するための仕組みであったのだろうと思う。結果的に日本人ガイドが主として案内業務を務め、現地人ガイドは、ドライバーに行く先を指示したり、観光内容についてより深く現地事情などについて説明を求められたりするときは現地人がより深く、具体的に、時にはさらに専門的に説明する、などの風景もあったような気がする。名所旧跡見物や社会探訪の在り方は時代と共に少しずつ変わってきたが、やはりその国を深く知る上では、一番得るところが多いと今も思う。

(以下、次号)

(写真・資料等、上から順に。ことわり無きは、筆者撮影) ボーイング707型機(Air France Corp.より借用 初めてのヨーロッパ添乗の旅行行程図(当時は、北回りアンカレッジ経由が多かった。) フィレンツェにて、現地ガイドと(1966年11月) 1970年ごろのローマのコロッセオ付近(エノテカ・コロッセオより借用) 最近のコロッセオ付近(2011年7月撮影)