2025.05.12 小野 鎭
一期一会 地球旅 361 ドイツでの思い出(1) デュッセルドルフにて
一期一会・地球旅 361 
ドイツでの思い出(1) デュッセルドルフにて 
 
オランダで列車を止めた話は書いたが、列車利用ということでは私自身がいろいろ失敗しており、冷汗三斗の思いを新たにする。その多くが駆け出しのころのことであって、ヨーロッパやアメリカ、あるいは世界一周の添乗と聞いただけで羨望感を持たれたが内実はお粗末なことが多かった。これはオランダやロンドン編でも書いた後継者養成海外研修団の添乗での失敗談。主たる訪問国はオランダに次いで西ドイツが多かった。第二次大戦後、復興を果たし、目覚ましい発展を続けていたこの国には学ぶことが多く、様々なテーマで視察や研修で訪れる団体があり、1966年にドイツを初めて訪れてから最後に訪ねた2011年までにこの国には大なり小なり60回以上は行っていると思う。 
 
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多分1970年かその翌年であったと思うが、オランダでの研修が終わり、アムステルダムから列車でデュッセルドルフへ向かった。列車は、TEE(Trans Europe Express)のラインゴールド号、ライン川沿いに走り、ドイツ西部の主要都市を抜けてスイスのバーゼルまで779km、所要7時間43分。当時としてはかなりの高速鉄道であった。まだ東西ドイツに分かれており、西側は当時もドイツ連邦共和国(Bundesrepublik Deutschland)であり、デュッセルドルフはノルトライン・ウェストファーレン州(NRW州)の州都である。ライン川は、スイスアルプスの源からボーデン湖という大きな湖を経て、スイス北部を西へ流れ、バーゼル付近で北へ流れを転じ、独仏国境近くを北上し、多くの支流を集めてオランダのロッテルダム付近で北海にそそぐ全長1320km、ヨーロッパ有数の大河である。内陸水路としても重要な河川であり、たくさんの物資がこの川を伝って運ばれ、一帯はドイツでも最大の工業地帯となっている。その川沿いに走っていたこの列車の名前はまさに「黄金のライン」を象徴していると言っても良いであろう。 
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デュッセルドルフは前述したように、NRW州の州都であり、当時も今も人口は60万くらいであり、ドイツでは、ベルリンやハンブルク、ミュンヘンなどよりは人口面では少ないが一帯はルール工業地帯という世界有数の工業地帯でありNRW州は1800万近くの人口がありドイツ各州の中でも一番多い。その中核をなす要衝であり、その中心がこの町である。1970年代当時、日本は高度経済成長期の真っただ中にあり、売上高や生産高を表す「右肩上がり」という言葉が良く使われていた。日本企業の海外進出も盛んでヨーロッパでは、ロンドンやパリだけでなく、ここデュッセルドルフにドイツやヨーロッパ事務所を置く企業も多い。この町に住む日本人は7~8千人を越え、この町の人口の1%を越え、日本食レストランなども多く、日本のビジネスマンの姿も良く見られた。ここには、日本商工会議所(日商)の事務所もあり、研修団はドイツの産業について聴講し、午後は市内の商店などの見学も予定されていた。 
 
 この日、早朝アムステルダムを出た列車は快適で車窓には牧場や農場、疎林などが広がっていたが次第に工場など横長の建物が数多く見られるようになってきた。時折、アウトバーン(自動車専用道路)の上を通り過ぎるときには、片側2~3車線の道路をたくさんの乗用車やトラックが高速で走っており、その圧倒的な躍動感に目を見張る思いであった。時折、ライン川が見え隠れし、そのゆったりした流れには大型の貨物船がコンテナや鉱石などを積んで行き交っていた。日本で見る川沿いの風景とはあまりにも違っておりその雄大さに驚いたものであった。 
 
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列車は、ドイツに入るとデュイスブルクに停車、そして次がデュッセルドルフであった。定刻午前10時23分に到着、荷物はまとめて列車のデッキ付近に置き、団員全員がホームに降り立たれた。アムステルダム出発時、ポーターが荷物をホームから列車内まで運び入れてくれ、その後は各自、自分たちで座席に持って行くようにとのことであった、そこで、到着時はその反対にポーターがデッキから降ろしてくれるものと自分は勝手に思い込んでいた。プラットホームには日本人ガイド(通訳兼務)がポーターと共に待ってくれていたので早速荷物を下ろすように伝えた。ポーターちょっと驚いたような顔をしていたが、一方ではホームのはるか向こうにいた駅務員が手旗を振り、発車の合図らしい動きを見せていた。次の瞬間、列車のドアは閉まって動き出していた。私は驚いてStop!ダメ!と駅務員に大声で叫んだが聞き入れる様子はなく、列車はスピードを上げ、そして、ホームから去って行った。すべて後の祭りであった! ポーターは、荷物を下ろすというよりは、私たちが荷物を持って降りてくるものと承知して、それを待っていたのだった。考えるまでもなく、その通りであった。この駅での停車時間は1分であり、荷物は当然、我々が持って降りるべきであったのに、ポーターがやってくれると勝手に思い込んでいたのが私の最大のミスであった。 
 
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とにかく日本人ガイドに訳を話し、荷物を我々の宿泊地であるボンの駅で下して、保管しておくようにと駅務員に伝えてもらった。いずれにしてもこの駅で長居をするわけにはいかなかった。予定では、駅から日商のデュッセルドルフ事務所に直行して、ドイツ産業の概要について聴講することになっている。そこで、細かいことは小野が駅務員に伝えるので日本人ガイドには予定通り訪問先へ団員をお連れしてもらうことにした。列車はこの後、ケルンに寄ってその次にボンに停車することになっている。ボン着は、11時7分。当時、私は、すでに数字や旅行用語などはドイツ語でもある程度は伝えることはできるようになっていたので手配が終わり次第、タクシーで追いかけるということにしたのであった。駅務員は、何ともお粗末なこの話に驚いていたが、とにかく鉄道電話で列車の車掌とボンの駅に伝えてくれた。荷物には所定の名札が付けてあり、全体の個数、ボンの駅には夕方行って、荷物を回収するので間違いなく荷物を保管しておいてほしいと懇願した。最小限の用向きを伝えて私はタクシーで日商へ駆けつけた。車中、荷物が間違いなくあること、全部の荷物を回収できるようにと内心、神仏に祈ったことを覚えている。 
 
商工会議所ではすでに説明が始まっていた。そして、午前の予定が終わり、市内のレストランで昼食を摂る一方、ガイドからボンの駅に電話で様子を聞いてもらった。そして、希望通り、荷物を下ろして駅で保管されていると聞いたときはとにかく安堵感でいっぱいだった。次の課題は、間違いなく我々の荷物であることと個数を確認することが絶対条件であった。そこでそのことを伝えてもらったところ、個数が多いので荷物の内容や個数までは確認していないとのことであった。そこで、「荷物には所定の名札が付けられており、個数をもう一度確認しておいて欲しい、後でもう一度電話する」ということでとにかく懇願するのみであった。午後の商店街と商店視察の合間に再度、ボンの駅に電話したところ、我々の荷物であることと所定の個数があると聞いたときはとにかく無上の喜びであった。そして、バスの中で全員に経過を伝え、これからボンに向かい、荷物を回収しますのでご安心ください、と伝えた。団員からは一斉に拍手が上がった。 
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ボンまでは、70㎞余でアウトバーンを走って約1時間の距離。ボンの街は、当時、西ドイツの首都であったがライン川に沿った人口20万足らずの小さな町であった。この時期、自分が知っていたこの町についての情報は、西ドイツの首都であることと、大作曲家ベートーヴェンの生誕地であることだった。ボンの駅自体はがっしりした石造りの建物であった。資料を見ると、駅は ボンの中央駅であるだけでなく、建設当時から 今も変わらずドイツでもっともきれいな駅の一つとして知られているとある。バスから降りて急いで駅構内へ行き、駅務員に申し出たところ、待合室横の部屋にスーツケースを載せたトローリーがあり、私たちの荷物であることがすぐに分かった。全体の個数を数えるとともに、団員全員を呼んで各自、自分の荷物をバスへ運んでもらった。全員が自分の荷物を受けとってもらうことができたときは身体中の力が抜けていくような気がした。そして、神仏への祈りが叶えられたと思うと同時に何ともお粗末であった自分の不始末を深く反省したことが今も思い出される。(以下、次号) 
 
《写真、上から順に》 
・ライン川沿いを走るTEE Rheingold (1980年代) : Das Gross TEE Buch 
・デュッセルドルフ市街とライン川(1980年代) : Dusseldorf Nahe Tritt Freiheit 
・デュッセルドルフ中央駅のプラットホーム(1970年代) : Das Gross TEE Buch 
・デュッセルドルフ中央駅(1970年代) : Wikipedia DB(ドイツ鉄道) 
・DB(ドイツ鉄道)ボン駅 : General Anzeiger Bonn 
・ボン中央駅(1911年当時) : Statt Reisen  Bonn erleben e.V