2025.05.21 小野 鎭
一期一会 地球旅 362 ドイツでの思い出(2) ボンにて
 一期一会・地球旅 362 
ドイツでの思い出(2) ボンにて 
 
ボンの駅では置き忘れに苦労した苦い思い出がある。これも後継者養成海外研修団添乗での思い出。ボンは、東西ドイツ分離の時代、1949年から1990年まで西ドイツの首都であり、60年代末から80年代にかけて幾度か訪れた。多かったのはドイツの農協であるライファイゼン農協の本部があり、日本から農協関係の視察団を多く取り扱っていたことや福祉や医療関係でこの国の関係省庁や組織を訪れたこと、在ドイツ日本大使館を訪れたことなどもあった。70年代、日本の農業はアメリカからのオレンジやコメ、家畜の飼料などの輸出入を巡って大きな試練を余儀なくされていた。当時、EEC(ヨーロッパ経済共同体=EUの前身)域内での農産物の生産に関してEEC加盟国、特にドイツの農民も大きな試練を味わっており、国を挙げての農業構造改善が議論され、様々な変化が起きていた。小農から大農への変遷、マシーネンリンク(農機具の共同購入と共同利用)、村落の若返りなどテーマがたくさんあった。農業後継者である青年たちにとっては身の丈を越える大きな話題ばかりであったが将来、自分たちが背負っていかなかなければならない課題を考えると避けては通れない、とより真剣に考えるようになっていたと思う。 
 
ボンにあるライファイゼン農協を訪ねる日本の農協関係の視察団は多く、わが社はそのような団体の取扱いも多かった。ライファイゼンの国際部長であったDr.シフゲン(Dr.Schiffgen)にはわが社から添乗する役職員などにはとても親身になって接していただけた。主催団体に代わって訪問許可を取り付けるため依頼状を作成することが多かったこともあり、同所の所在地であるボン市アデナウワー通り127番ライファイゼンハウス (Raiffeisenhaus, Adenauerallee 127, Bonn)は今も私の脳裏に残っているほど。今回、このテーマについて書くにあたり、昔を懐かしんでこの住所を調べてみたところ、ライファイゼン銀行など今もライファイゼン協同組合の事務所があることが紹介されている。余談であるが、西ドイツの首都がボンとして定められた理由の一つとしてドイツ連邦初代首相であったコンラート・アデナウワーの出身地がこの地であったこともあるとか。何とも懐かしさが沸き上がってくる。閑話休題。 
 
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72年の研修団はボンに到着後、夕方、ライファイゼン農協の国際部職員から夕方、 ドイツ農業の諸課題について説明を受け、翌日は農家訪問や農産物市場、集落の若返り事業などの見学など盛りだくさんのプログラムがあった。見学先での滞在が予定より延びてしまい、次の目的地に向かうためボンの駅に着いたときは乗車予定の列車到着間際であった。ヨーロッパの鉄道は日本ほど発着時間が正確ではないことが多く、予定よりも遅いことがよくあったが、それでもスイスに次いでドイツは正確なことが多かった。バスが駅に着いてメンバーには急いでバスから降りてもらい、各自バスのトランクからドライバーが出してくれた荷物を持って、乗車予定のプラットホームへ進むように案内した。当時、駅にはエレベーターが無く、スーツケースをもって階段を降り、地下道を通って階段を上がってもらい、乗車予定の場所に40数名が急ぎ動いてくれたが汗をビッショリかくハードな仕事であった。 幸い、そこはほとんどが屈強な若者集団であり、動きは早かった。 
 
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私は、全員がバスから降りたとき、もう一度バス内に忘れ物などはないだろうかと見回ったところ団員の一人がコートを忘れていたことに気づき、これを腕にかけて自分もスーツケースをもってホームへ急いだ。そして、ホームに全員そろっていることを確認し、コートを忘れていたメンバーに渡したところ、急に腕が軽くなり、いつも肩にかけていた添乗バッグを持っていないこと気づいた。その瞬間、頭の中が真っ白になった思いだった。先ほど、ドライバーと一緒にバスのトランクから荷物を出したとき、添乗用のショルダーバッグは道路わきに置いたままであった。コートとスーツケースを持つことで両手がふさがっており、ショルダーバッグを置きっぱなしにしていることに気づかなかったのである。間もなく列車が入ってくる時間ではあったが、団長や事務局のメンバーに了承を得る余裕もなく、もう一度、駅前のバスを降りたところまでひた走った。 
 
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自分たちが乗ってきたバスはすでに発った後であったが、私のショルダーバッグは歩道わきの建物の壁際に置いたままであった。とにかく、ほっとして、一気に心が明るくなった。何しろ、バッグには、全員分の航空券、鉄道の団体乗車券、ホテルなどへのヴァウチャー(クーポン)、添乗金、自分の旅券など、言わば団全体の財産と言ってもいいほどの貴重品が入っていた。そこで、安心したのは良かったが次はホームまでもう一度、走らなければならないことだった。まさに宙を飛ぶ思いでその日何度目 
かこの駅の階段を駆け下り、駆け上り、ホームを走った。すでに列車は入っており、ほとんどの団員が荷物を持って乗車しており、メンバー数人と事務局氏が待ってくれていた。そして、にっこり笑って次々に列車に飛び乗った。発車時刻は少し過ぎていたと思うが何とか、一命をとりとめたようなホッとしたひと時であった。 
 
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列車は、次第に速度を上げ、車窓にはライン川の雄大な流れが見え、次第に両側には緑の丘陵地が近づいて間もなく名勝ローレライの岩山が迫ってきていた。一帯は、「ライン渓谷中流上部」として今は世界文化遺産になっている。その頃になってやっと気持ちも落ち着いてきた。そして、メンバーに自分の粗相を詫びた。ボンはその後も、農協や医療・福祉関係研修団などの添乗で訪れ、ボンの駅にも幾度か寄っているがそのたびに駅前の歩道わきの辺りで血相を変えて添乗バッグを取りに行くために駅の階段を駆け下り、駆け上ったことを思い出した。もし、これが前回書いたデュッセルドルフであるとか、ケルンあるいはフランクフルトなどたくさんの人が出入りしている駅であったら、と考えるだけでも恐ろしくなる。多分、その後の添乗員としての生命は途絶えていたかもしれない。 
 
もう一つ、ボンでは大きな感動を味わったがこれについては改めて紹介させていただきたい。(以下、次号) 
 
《写真、上から順に》 
・Raiffeisnhaus (ライファイゼンハウス)   :  Bundesarchiv B145 Bild-F027090-0003資料より 
・農産物市場見学 ボン市内にて : 1972年 筆者撮影 
・ボン中央駅 (1982年) : Stellwerksdatenbank資料より 
・ライン川とライン渓谷、手前がネコ城(Burg Katz)前方の岩山がLorelei : Wikipedia より