2023.11.27 小野 鎭
一期一会 地球旅 289 カナダの大自然と遊ぼう 番外編4
一期一会・地球旅 289 
カナダの大自然と遊ぼう 
番外編 ④ ジャスパーへ ④
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 初めてジャスパーを訪れたのは1976年であった。食肉関係団体の視察旅行でカナダ東部のモントリオールやトロントに次いでカルガリーでの視察を終え、バンフからジャスパーに至った。ここから大陸横断鉄道の寝台車でバンクーバーへ向かい、そこから帰国するというコースであった。朝バンフを発ち、途中コロンビア・アイスフィールド・センターで昼食、夕方ジャスパーに到着した。今、半世紀近く前のこの時の写真を見ると、6月なのにコートを召しておられる人もあるし、バスの後ろは白銀の世界、かなり寒かったらしい。 

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 ホテルに着いたところ、会社から電話があったこと、そして、折り返しCall backするようにと、メッセージがあった。当時は、時々、町の売店などで新聞を買うとか、テレビの国際ニュースで時には日本のことが報じられていたが、よほどのことがなければ会社や家族のことはわからずじまい、No news is good news!と理解してあまり会社に電話することもなかった。社は個人客よりも団体の取り扱いの方が多く、小さな会社であったが、専務以下自分のような入社して数年の若造まで、世界中を添乗で飛び回っていたので滅多なことでは驚かない、そんな気風があった。急ぎの電話があったということは何か緊急事態が起きたに違いなかった。チェックインを終え、お客様には部屋に入っていただき、自分も部屋から国際電話を申し込んだ。ジャスパー(カナダ山岳夏時間)と日本には15時間の時差があり、少し迷ったが、Y常務の自宅に電話したところ、出勤前だったらしく、幸い、話ができた。開口一番「お父さんが急逝された」ということであった。愕然として前後感覚が一瞬無くなったような気がする。常務の話では、父は出先で運転中に心筋梗塞を発症、辛うじて道路わきに車を停めてそのまま、だったとか。「君は、気の毒だけど、そこからすぐに帰国することはできないだろうから、社長が君の故郷(福岡県)へ行って、ご家族に事情を説明し、お葬式に参列することとしたいので承知してほしい」ということであった。「添乗中であり、自分だけ先に帰ることができないのは当然で、やむなくそのまま進めてください」と答えて電話を切った。 
 
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 このことについて、お客様にお伝えしようか、どうしよう?と迷ったが、会社から緊急電話があったことは、団長以下数名の方も知っておられたので、隠すよりお伝えするのが筋だと考えて、団長にお伝えした。そして、「予定通り、このまま、添乗を続けて羽田まで帰りますのでどうぞ、ご心配なく」、と約束して翌日午後、ジャスパーを鉄道で発った。翌朝、バンクーバーには、1時間余り延着したが、まあまあ予定通り到着、市内見学を兼ねて食肉店やスーパーなどを回ってホテルに入った。
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 実は、個人的にもこの時は、バンクーバーも初めてであり、山紫水明の美しい街であることを聞いてはいたがまさにその通りだと実感した。自分は、初めて訪れたところは、特に、見るもの聞くものすべてが興味深く、添乗業務だけでなく、個人的にも関心を持って観ることに力を入れていた。時間的な余裕を見つけては、文字通り、寸暇を惜しんでタクシーや地下鉄などを使って見て回っていた。父の急逝を聞いて、さすがに気持ちは平静ではなかったが、いまさらどうしようもないとあきらめの心境であったと思う。この時も、夕方までの時間をタクシーで中心街からライオンズゲート橋を渡って北バンクーバーまで回ってもらい、折しも雨に煙った都心のビル街の風景を眺めたことは今も忘れない。その後、幾度もこの町を訪れたが、特に雨の日は、初めて訪れて傷心の思いで眺めた風景がよみがえってくる。夕方、ホテルのレストランでの夕食時、団員ご一同からお悔やみの言葉をいただき、ご香典のお心遣いを賜ったことは大変ありがたく、今も忘れない。 
 
 こうして予定通り6月17日に帰国、羽田空港でお客様とお別れした後、そのまま板付(福岡)へ向かい、帰省した。実は、この年、5月下旬に父方の祖父が他界しており、それには私も葬儀に参列している。祖母はずっと前に亡くなっていたので父には、祖父亡き後これからは、少しは楽をしてほしい、と言って、そのまま帰京、まもなくこの時の視察団の添乗員としてカナダへ向かったのであった。 
 
 父は、戦後、復員して帰省していたが職業軍人であったこともあり、しばらくは職に就けなかった。やっと海軍時代に身に着けた通信技術を買われて炭鉱で働けるようになったが、祖父母がやっていた農業と両方の掛け持ちでずいぶん苦労していたことを私も子供ながらに見ていた。私の中学時代に父は坑内で事故に遭い、右手先をなくし、まもなく炭鉱を辞め、不慣れな仕事をあれこれやっては、何とか私たち家族を養っていたが思うに任せない生活の厳しさはいつも感じていた。高卒後、そのまま就職しようと八幡製鉄を受験したが、2次の体格検査で落ちた。そこでやはり、大学に行きたい、自分の力で学費を稼ぎ、生活していくので何とか上京することを認めてほしいと懇願した。父は、それなら、と、認めてくれたので、高校卒業式の日の夜、1960年3月1日、飯塚駅から急行阿蘇で東京に向かった。そして、大学を卒業、子供のころからの夢であった旅行会社に入社したのは1964年4月1日、この日は、海外旅行が自由化された日でもあった。自分の旅行業人生は、我が国の海外旅行の歴史と始まりは同日なのだと、心の中ではいつも誇りにしていた。 
 
 そんなわけで、父が復員してきてから自分が高校を卒業するまでの10数年間だけ一緒に生活した思い出しかなかったが、今、自分があるのは、父のおかげと感謝してきた。父は、私の結婚式と数年後、建売住宅を買って曲がりなりにも一家を構えることができたとき、それを祝ってくれるべく上京してくれたときの2度ほど、数日間を過ごしただけでであった。それだけに、碌に親孝行もできないままに父が逝ったときに見送れなかったことは何とも残念であった。今も、ジャスパーという地名を見ると半世紀近く前の寂寥感がよみがえってくる。(以下、次号) 
 
《写真、上から順に》 
・アイスフィールド・パークウェー、ボウ峠付近(左端が筆者) 1976年6月13日 
・アイスフィールド・パークウェーではビッグホーンシープにも出会った。 同上 
・コロンビア・アイスフィールド・シャレーにて(左が筆者) 同上 
・バンクーバーでの夕食会、お悔やみのお言葉とご香典を頂戴した。(左側が筆者)1976年6月15日