2024.05.20
小野 鎭
一期一会 地球旅 312 中南米での思い出 19
一期一会・地球旅 312
中南米での思い出 (19)
パラグアイ・アスンシオン ③
私たちがパラグアイを訪れた半世紀前は、ストロエスネル政権が1950年以来独裁状態で親ブラジル政権下であり、治安が回復し、経済は順調に成長していたころであったと思う。首都アスンシオンでは、現地日系商社や日本関係者との懇談が行われたが、74年の養蜂産業関係視察団は、ラ・コルメナ移住地やパラグアイ養蜂センター(APSAD)などを訪問された。ラ・コルメナ移住地は、アスンシオンの南東130kmに位置しており、この地名の由来は、勤勉な日本人に相応しい「蜜蜂の箱」を指しているという。パラグアイへの日本人の移住は、1936年に原野に設営されたラ・コルメナ移住地への入植に始まった。その後、第二次大戦終了後、1952年に日本からの移住が再開され、パラグアイ各地への入植がはじまっていった。ラ・コルメナ移住地は、1965年にはアスンシオン市場に通じる道路の整備により、大消費地のアスンシオンまで130キロという地の利を生かしての蔬菜栽培や果樹栽培が盛んになり、1951年からはラ・コルメナ農協によりワイン製造も開始された。現在も盛んに行われている果樹栽培により、ラ・コルメナ移住地は「Capital de las Frutas(果物の都)」とも言われている。私たちが訪れた1970年代中頃は野菜や果樹栽培が大きく成長していった時代であったと思われる。(ラ・コルメナ移住地に関するJICA資料より、類推)
翌日、一行は先住民であるグアラニー族の人たちが多く居住しているパラグアイ川の中の島にある集落を訪ね、彼らの生活様式などを見学された。素朴な住まいであったと思うが、多分、観光収入を得るためのモデル集落(?)のようなところであったのではないだろうか。
75年に食肉事情視察団がアスンシオンを訪問されたころは、この国での食肉生産はまだそれほど多くはなかったらしく、その前日見学したイグアス移住地などでも肉牛の飼育が行われ始めていると説明を受けていた。 今日では、この国の牛肉輸出は、世界有数の規模を誇り、国際市場における輸出シェアにおいても一定の地位を占めている。国土は日本の1.1倍くらいあり、広大且つ豊かな草地を有するが、特に西部地域は降雨量が少なく、大豆はじめとした耕種農業には適さないため、牧畜生産は東部地域から西部地域に移ってきている。私たちが訪れた東部地域の牧場などは今ではフィードロットなど集約的な飼育がおこなわれているのだろうか。
一行は、市内の食肉店や商店街などを視察され、午後は郊外にある先住民であるマカ族の居住地を訪問され、夕食では素朴なボテッリャというこの国の伝統的なダンスのショーがあった。ダンサーたちが頭の上にワインの瓶などを載せてこれには手で支えることなく演じるという素朴な踊りであったがなかなか見ごたえがあったことを覚えている。今ではどうなのだろうとYou tubeを開いてみるとビンを数本重ねて踊るというショーも名物になっているらしく、中国の雑技団にも負けないようなシーンが見られる。
翌日の出発は夜であったため、昼間、メンバーは久しぶりにゴルフを楽しまれた。私は、ゴルフはできないがゴルフ場には同行して、遠くから観戦した。この日もまさに酷暑日、気温は午前中からすでに40℃を越えていたと思われるが空は青くどこまでも澄み渡っていた。団員諸氏は黄色く(?)乾いたグリーンの上で文字通り、熱戦を繰り広げておられた。午後、ホテルに戻って一休み、夕方、ペルーのリマへ向かった。(この項にて中南米での思い出 終了)
《資料》
・パラグアイにおける日系社会について : 独立行政法人 国際協力機構(JICA)
・ラ・コルメナ移住地:Federación de Asociaciones Japonesas y Nikkei del
Paraguay
・パラグアイにおける肉牛生産の概要 : 独立行政法人 農畜産業振興機構
《写真》(上から順に)
・パラグアイの移住は、原始林開拓から始まった:Discover Nikkeiより
・現在のラ・コルメナ移住地は、見渡す限りの穀倉地帯 : Discover Nikkeiより
・グアラニーの人たちとの交歓 1974年4月11日 筆者撮影
・Danza de la Botella ボトル・ダンス : Wikipedia
・アスンシオン空港 まだ大型プロペラ機も活躍していた。 1974年4月12日 筆者撮影