2024.09.30 小野 鎭
一期一会 地球旅 330 オーストラリアの思い出(15)タスマニア4
一期一会・地球旅 330 
オーストラリアの思い出(15)タスマニア④ 
 
 オーストラリアへの旅行と言えば、多くの人は、シドニーやゴールドコスト、あるいはグレート・バリア・リーフを思い浮かべられると思うが、自分の場合は、メルボルンとタスマニアの印象が強い。初めて訪れたのが1974年の海外教育事情視察団でメルボルンとタスマニアのホバートであったということもあるが、その数年後に2度にわたって訪れた資生堂財団様派遣の児童福祉海外研修での印象が強い。それぞれの地に1週間滞在して集中研修が行われ、自分は添乗業務と併せて大部分の通訳も担当し、セント・ジョンズ・ホームズのエリス師に多くの指導を得たことが起因していると思う。ホバートもそうであるが、もう一つ、忘れられないワケがある。1985年に次いで、2001年9月、3回目のホバート訪問がそれである。 
 
 全国老人給食協力会という組織があり、ここで企画されたオーストラリア食事サービス視察旅行であった。1983年の最初の視察団から毎回お手伝いをしてきたが、2001年のときも私自身が添乗していた。この時の主要訪問地は2か所あった。最初は南オーストラリア州都のアデレード、その後がホバートであった。ここでいう食事サービスとは、住民参加による食事サービス(Meals on Wheels =ミールズ・オン・ホイールズ)であり、これは在宅高齢者の自立生活を支援する最も基本的なサービスであり、食生活を支援するため提供される「生活支援」としての食事と、孤立・孤独になりがちな在宅高齢者の社会参加を促す「社会支援」の役割を同時に担うものともいえる。(一般社団法人 全国老人給食協力会 資料より)この活動は、日本の各地で行われているが、オーストラリアでは、規模が大きく、州や自治体がサポートしていることが多く、各州には大小さまざまな食事サービスを行っている事業体がある。 
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 ミールズ・オン・ホイールズ南オーストラリア協会(Meals on Wheels SA)は、1954年に設立されている団体で全国老人給食協力会は以前から交流が盛んであり、現地への視察も幾度か行われている。実は、本稿執筆中、「日豪交流40周年記念シンポジウム」が2024年9月26日に東京で開催されることを知った。折しも、上記南オーストラリア協会(MoWSA)は、今年、創立70周年を迎えておられ、あるいはそれを祝する意味合いも含まれているのかもしれない。盛会を祈念しつつ、本稿を書くことにしたい。 
 
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 オーストラリアでは、隔年くらいで全豪給食会議(Australia Meals on Wheels National Conference)が行われている。2001年のこの年、会議はホバートで行われており、日本から、オブザーバー的にこの会議に10数名の方が参加された。会場は、ホバートを代表する大型のレストポイント・ホテル&カジノであった。アデレードでの視察を終えてメルボルン経由で到着したのは9月11日お昼過ぎであった。この時は私たちもこのホテルに泊まった。この日の午後、会議では総会が開催され、夕方レセプションが行われた。タスマニアの団体を始め、南オーストラリアや全豪各地からの参加者と懇親を深めた。日本からのメンバーが正式に紹介されて大きな拍手で歓迎された。 
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 宴の後、カジノで運試しをされた人もあった。このホテルは、1973年に開業しており、オーストラリア初の公認カジノとしても紹介され、偶々同じ年に完成したシドニーのオペラハウスと並んで旅行業界では新しい観光スポットとして世界的にも話題となっていた。私も、それ以前に2度ホバートを訪れているが、いつも中心街に宿泊していたのでお客様のお供をしてカジノには来たことがり、ある程度の知識はあったが詳しくは承知していなかった。この町が日本の遠洋漁業関係の補給基地として日本漁船の寄港も多く、乗組員たちが休養を兼ねて上陸、カジノは彼らにも好評だったらしい。しかし、この滞在中、それらしい姿はほとんど見かけなかったと思う。 
 
 このホテルは、町の中心からは少し離れた入り江に面した景勝地に建っている。この時は、多分、11階辺りに自分は宿泊していたと思う。窓からはダーウェント川とその上にかかるタスマン橋、そして少し雪をかぶった山並みなど雄大な眺めであった。9月12日の朝は、全豪給食会議の開会式が予定されているのでそのためには早めに朝食を済ませておこうと起床した。そして、テレビのスイッチを入れたところ、驚くべき光景が映されていた。そして、キャスターが声高に早口でまくし立てていた。テロリストにハイジャックされた航空機がニューヨークのワールドトレードセンター(WTC)に突っ込み、続いて二本目のタワーにも同様に航空機が激突、黒煙を上げて二本のタワーが崩れ落ちていくあのシーンであった。この衝撃的な出来事に世界中が震撼させられたあのニュースであるが、タスマニアとニューヨークの間には14時間の時差があるのでこの事件が起きたのは私たちが熟睡していた深夜に起きていたのであろう。 
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 自分は、ホバートのレストポイントでこの驚くべきニュースを見た。ニューヨークに行くたびにこのWTCは訪れており、特に前年は9月に行っているし、その年、5月にはカーネギーホールで第九のコンサートも行っており、当時、東京都のニューヨーク事務所がWTCにあったので都の後援をいただいていた関係でその数年は特に幾度も訪れていただけに信じられない思いであった。正直なところ、悪い冗談かそれとも映画の1シーンかと思いたいほどであった。廊下に出てみるとドアの外側に地元紙が各客室の前に置いてあった。昔は、有名ホテルでは、宿泊客にホテルのサービスとして、各部屋のドアの前に新聞が置いてあり、この時もそうであった。新聞には一面に大きく、テレビで見たあのシーンが印刷されていた。エレベーターで下へ降り、レストランに行ってみるとゲストは誰もが信じられないという顔つきでNYCのこの事件の話題で持ちきりであった。しかもニューヨークだけでなく、ワシントンDCやクリーブランドでもハイジャックされた航空機が墜落したり、ペンタゴン(米国国防省)に突っ込むなど、同時多発テロとして世界中に恐怖と怒りが巻き起こった9.11事件であった。 
 
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 全豪MOW会議は予定通り始まったが、最初のセレモニーはこの事件で犠牲となった人たちへの黙とうから始まった。あらゆるテロを憎むということばが繰り返され、沈鬱な雰囲気の会議であった。会議参加者の中には、自分に関わりのある人がWTCにいたという人もあったかもしれない。こうして、会議と展示会は2日間にわたって行われ、9月15日にホバートを発ってシドニー経由帰国の途に着いた。実は、この時、アメリカで起きた同時多発テロ事件の余波による通信や航空便などの混乱等が影響したのかは、わからないが私たちが搭乗する予定であったQF便も乱れて当初の予定よりかなり遅れてホバートを発ってシドニーへ向かった。シドニーで予定通り乗り継げるかどうかも心配したが、こちらでも同様の混乱が起きており結果的にはうまく乗り継ぐことができた。そして、かなり遅れての日本帰国となった。こうして、3回目のホバートでの思い出は、何とも暗くやりきれない記憶として残っているが、滞在中、現地で買ったTシャツはかなりくたびれてはいるが今も時々、着ている。(オーストラリアの思い出は、今号で完。次号はどこへ?) 
 
 
《写真、上から順に》 
・南オーストラリア食事サービス アデレード都市圏ノーランガ・キッチンにて 
 全国老人給食協力会1999年視察団 前列中央が全国老人給食協力会の平野真佐子代表1999年9月 筆者撮影 
・2001年 全豪給食会議のレセプションにて 右から7番目(中央)が平野真佐子代表、前列左側が筆者 2001年9月11日 
・2001年 全豪給食会議の会場であったレストポイント・ホテル&カジノ : レストポイント・ホテル&カジノ資料より 
・攻撃されたアメリカ タスマニアの地元紙 Mercury 2001年9月12日版 
・ホバート土産のTシャツ、今も時々着用している。2024年9月撮影