2025.03.31
小野 鎭
一期一会 地球旅 355 オランダでの思い出(3)列車を止めた!

一期一会・地球旅 355
オランダでの思い出(3)列車を止めた!

エレベーターが止まった椿事に続いて、これは列車を止めた話。1969年から75年にかけてある県の事業で産業後継者養成というテーマのもとにヨーロッパの産業視察や青年との交流、歴史や文化について学ぶことなどが計画された。県内の地場産業や農業、水産業などその県内の各種産業の振興を図るために国際感覚なども身につけて、「これから」を担う「より意欲的かつ優秀な産業後継者」を養成しようという目的であった。第一回目は40数名の派遣であったが、次第に大きなグループとなり、数年後には100人を超える大きな事業になっていった。参加者は帰国後、海外で見聞してきたことなども活かして自らを一層高めていこうという意欲に燃えていることなど、好評であった。事業成果が大いに期待され、高度経済成長という時代背景下でもあり、県の予算も次第に大きくなっていったのであろう。当時、私も参加者と同世代くらいであり、彼らとは気心が合い、彼らの考えに大きな希望と期待を願う一方、この研修を通して大きく成長してほしいと願うものであった。

71年であっただろうか、オランダで3日間の集中研修を終え、フランスでは文化と歴史について学ぼうということでパリへ向かった。アムステルダムからパリまで航空便では248マイル(400㎞)1時間足らずであるが、この時は鉄道で約500㎞、航空便で一気に飛ぶというのではなく、干拓地とそこに広がる農場や牧場、都市や集落などオランダ、ベルギーからフランスの沿線風景を車窓に約7時間の旅であった。車内では参加者同士が語り合い、相互に学びあってほしいとの県としての願いもあった。当時はEtoile de Nord(北の星)という全車1等などの豪華列車もあったが、他にも普通特急(Rapid)が日に7~8本あり、この時はこちらであった。経由地には、オランダの行政上の首都デン・ハーグ、世界有数の港ユーロポートを有するロッテルダム、ベルギーの首都ブリュッセル、フランス北部の工業都市リールなどがあった。今は、高速鉄道ユーロスターが一日20数本走っており、いずれも3時間25分くらいで結ばれている。日本の新幹線より所要時間は長いが乗り心地の良さは評判らしい。

実は、この原稿を書いているとき、偶々NHKのBS放送で「15時17分発、パリ行き」という映画をやっていた。名匠クリント・イースウッド監督作品であり、2015年、当時の高速鉄道Thalys車内での銃乱射事件とこれに立ち向かった3人の若者を描いている。原作はこの事件に巻き込まれたこの若者たち自身であり、この3人を本人役として起用しているとのこと。このテロ事件以後、Thalys乗車では一時期、保安検査が実施されるようになったそうであるが今は平時に戻っているらしい。但し、ロンドン発のユーロスターでは簡単な荷物についての保安検査があるのでチェックインは少し早めに済ませるようにとある。
さて、71年のこの時のグループは午前10頃、アムステルダム中央駅を発ってパリへ向かった。ハーグ、ロッテルダムを経由して車窓には麦畑や牧草地、疎林、丈の高いポプラ並木などが通り過ぎていった。列車はコンパートメント型になっており、3人が~向かいあって座り、各室6人でかなりゆったりしていた。全体としては、多分1車両に8~9室あったと思うので私の記憶では、前後2車両にグループが分かれて乗車していたと思う。各コンパートメントの片方には通路があり、ところどころに折り畳み式の小さなイスがあり、そこに腰かけて車窓風景を眺めていると一入(ひとしお)旅情が湧いたことを思い出す。

それはさておき、しばらく走っていると突然、列車は急に速度を落として間もなく急停車した。何事だろう?と気になり、自分が乗っていた車両と隣のコンパートメントを見て回った。そして、愕然とした。一瞬、背中に冷水を浴びせられた思いであった。そのコンパートメントで網棚からスーツケースを下ろそうとして、壁に設置されている非常用フックに触れてうっかりこれを押してしまったとのこと。まさに「万事休す!」とはこのようなことを指すのかもしれない。その時、車内アナウンスが流れ、「列車の非常用フックが押されて急停車したので、乗客の皆さんは車内で待機してください」、という内容であった。メンバーの一人がスーツケースから何かを取り出すために網棚から降ろしたところ、少しよろけてうっかり非常用フックに触れたのであり、故意ではないと真っ先に告げられたが「時すでに遅し!」であった。すぐに車掌を探していたところ、二人ずれの制服姿がやってきたので事情を説明した。厳しい顔つきで、「なぜ、フックを押したのか?」と英語で詰問された。こちらの団長と随行していた県の職員などもそろって、しきりに詫びの態度を見せられた。私は、当事者と共に事情を説明し、決して故意ではないことを強調して釈明した。列車の外では、車掌と機関士など、数名で車輪やブレーキ装置などを確かめている様子であった。細かく事情を聴取されて、オランダ語、仏文と英文で書かれた始末書らしき用紙に本人と代理人である自分が署名した。
どのくらい停車していただろうか、オランダ/ベルギー/フランス北部の幹線であり、車内アナウンスが流れて、パリへ向かって列車は走り出した。しばらくして、専務車掌らしき人物が来て、引き続き厳しい顔つきで、叱責を受け、事情は分かったが、列車を急停車させたことは過失であったにせよ、と責任が問われ、罰金として、かなりの金額(2000Dfl?:ギルダー=15~16万円くらい?)を請求されたと思うが正確な金額は覚えていない。とにかく、私が代理で米ドルの旅行者小切手で支払い、帰国後、現認証明書を提出し、清算してもらった。この罰金相当額が旅行傷害保険で担保されたかどうかは聞いていない。今は、賠償保険で担保されるのだろうか? いずれにしても、今日では、過失であるにせよ、列車を止めた場合は、鉄道運送法などでかなりの厳罰が課されるであろう。

ところで、長距離列車では、車内に荷物置き場があることが多いが長距離の国際列車などでは盗難などを防ぐため、スーツケースは自分の席の網棚やシートの下に置くことが多かった。しかしながら、荷物が重く、これを頭上まで持ち上げて網棚に置くことは容易ではなく、慣れないと屈強な大人でも容易ではない。列車出発前の停車中に格納するとか、私自身が手伝って荷物を上げ下げすることが多かった。乗車前に車内での過ごし方や荷物の保管、非常用フックには触れないことなど注意事項を伝えることは大切な務めであった。さらに、国境通過時は、前後の駅で検査官が乗ってきて、旅券の提示を求められることなども説明した。添乗中は毎回、いろいろな注意事項をお伝えし、一方ではあまりうるさくすることなく、快適に過ごしていただくよう心掛けてはいたが思わぬトラブルが発生することはよくあった。様々なハプニングを経験することで旅行説明会では苦い思い出を頭の中に蘇らせつつ、具体的な実例を示すことが多くなっていった。(以下、次号)
《写真、上から順に》
・後継者養成海外研修団(1969年) 後列右端が筆者
・アムステルダムでの機械メーカー見学 1971年9月 筆者撮影
・アムステルダム/パリ間のThalys号 Wikipediaより
・アムステルダム/パリ間の急行列車(Rapid 1970年代) Wikipediaより
・列車のコンパートメント(欧州の鉄道で見られた2等クラスの例 3人掛けx2) Wikipediaより