2025.04.22
小野 鎭
一期一会 地球旅 358 スコットランドでの思い出(2)列車を動かした!

一期一会・地球旅 358
スコットランドでの思い出(2)列車を動かした!

この日は、ハイランド地方の小さな町ピトロッホリー(Pitlochry)からロンドンへ夜行列車で行くことになっており、列車に乗る前に夕食を摂るため、この町の少し郊外にあるホテルに寄った。アトール・パレス・ホテルAtholl Palace Hotelは、ビクトリア朝時代に開かれた貴族の城館を模したホテルで優雅な雰囲気であった。カムチャツカ半島の中部とほぼ同じくらいの北緯56度より少し北にあたるこのスコットランドのハイランド地方は、夏至を少し過ぎた6月下旬は夜10時ごろまで夕日が当たっており、ホテルに着いたころはまだ昼間そのものと言った感じであった。夕食までのひと時、豪華なロビーや広い庭園内のベンチで休んだり、木立の間を流れているせせらぎに足を浸したり、しばし旅の疲れを癒した。そして、団員各氏からは、これから夜行列車に乗ってロンドンへ向かうのではなく、今夜はこのホテルで一泊して行けばいいのに!とぼやかれたことを思い出す。
ピットロッホリーはハイランド地方南部を流れるタンメル川のほとりにあり、ビクトリア朝時代(19世紀)、ビクトリア女王とアルバート公夫妻がこの地を訪れ、バルモラルの土地を購入したことから、1863年に鉄道が開通した後、観光リゾートとして発展した町。人口3千人ほどの小さな町であるがこの地方の観光の中心であり、町中には2軒のウィスキー蒸留所があり、この地域一帯はウィスキーの作りが盛んなところでもある。(Wikipedia)

文豪夏目漱石が、文部省派遣の留学生として2年余りをロンドンで過ごしたのち、帰国前のひと時をここピットロッホリーで過ごしたことが知られている。このことについて、「スコットランドの漱石」として多胡吉郎の書(文春新書)があり、これを読んでみた。「タンメル川は清流だが、水は黒みを帯びている。ピートを含んでいるためだ。『染粉を溶いた様に古びた色』と、漱石は形容した。うまい表現だと思う。スコットランドは、ウィスキーの本場であり、ピトロクリーにはウィスキーの蒸留所がある。・・・ピトロクリーの思い出を描いた『永日小品』の『昔』の中に次のような記述が登場する・・『明らかで寂びた調子が他に一面に反射して来る真中を、黒い筋が横に蜿(うね)って動いている。泥炭を含んだ渓水(たにみず)は、染粉を溶いた様に古びた色になる。此山奥に来て始めて、こんな流れをみた。』 ピトロクリーの谷を流れるタンメル川が、泥炭=ピートを含んで黒錆色に染まっていることを述べたものであるが、通常、スコットランドでピートの説明をする際には、一般に燃料として利用されてきたこと、とりわけウィスキー造りでは、ピートを焚いた薫煙で麦芽を乾燥させるのに使われ、しかもその過程がウィスキーの個性を決めるうえで極めて重要であることが熱っぽく語られる。ピートとウィスキーは、スコットランドでは切っても切れない関係なのである。」

多胡吉郎のこの本は、平成16年(2004年)発行であるので私たちがピットロッホリーに寄ったときは勿論、この本は無いが、少なくとも漱石がかつてこの地を訪れたことは分かっていたはずである。当時はそんな文学的なことは知る由もなく、ひたすら営業と添乗業務で世界中を飛び回るだけであった。ハイランド地方を走りながら、バスドライバーが案内してくれた中には、昔、日本の文豪が若かりし頃、この地を訪れたことがあるなどとは知らなかったとしてもそれを責めることはできない。己の不勉強を恥じるのみであった。

夕食を終えて、21時ごろ、ピットロッホリーの駅へ向かった。バスで数分であった。駅舎は小さな建物であり、漱石も乗り降りしたであろう古い建物であったことは覚えている。昨日来ハイランド地方の旅を楽しませてくれたタータンチェックのドライバーと彼のバスは駅で我々と荷物を降ろして去っていった。駅ではかなり年配の駅務員兼ポーターのような係員が手押しのトローリーに我々の荷物を載せ、私が提示した団体切符とそこに書いてある号車番号を見て、ホームのかなり端まで案内してくれた。列車の到着までは、まだ時間があるせいもあるのか、真夏の夜のせいか、駅にはほかに数名の乗客らしい姿があるのみだった。待つこと暫し、列車は予定通りやってきた。かなり長い編成であり、私たちが乗る号車の番号を探した。ところがそれらしい号車が見当たらない。わかったことは予定された号車はプラットホームの端から反対側であった。お客はともかく、荷物があるのでそう簡単にこの長いホームを向こう端まで急ぐことはできない!血相を変えて用務員に文句を言ったがいまさらどうしようもない。メンバー各位にスーツケースを持ってもらい、向こうまで行くしかない!? それとも目の前の号車に乗り込んでこの長い列車編成の中、荷物を引きずって移動しなければならないのか? とにかくスーツケースをトローリーから降ろしていたところ、駅員と車掌と列車の機関士が何やら交渉らしきことをやっていた。そして、このまま、ここで待つようにと指示があった。間もなく、列車はゆっくり動き出し、我々の目の前近くに我々の号車が止まった。早速、前方のデッキから荷物を積み込み、後方のデッキから我々が乗りこみ終えた。窓からは、何事かと乗客たちが不思議そうな顔を出してみていたらしい。大笑いしながら拍手をしているお客もあったとか。この時ばかりはおおらかな英国人と機関士の計らいに感謝したものである。多分、数分間の遅延が発生したとは思うが、夜の間に時間を取り戻したらしく、翌朝、ロンドンのユーストン駅には、定刻の午前7時35分に到着した。
この数年前、かつてオランダでは、メンバーの一人がスーツケースを網棚から降ろそうとして、非常ロックに触れたため、列車を急停車させて罰金を取られたことがある。今回は、スコットランドで私たちのために列車を移動させたことになり、ちょっと誇らしい思いをしたような気がする。今では、そんな悠長な計らいがされるとは思いもしないが、半世紀前はおおらかな時代であった?

ところで、今の英国鉄道の時刻案内を見ると、カレドニアン・スリーパーCaledonian Sleeperピットロホリー発22:47、ロンドン・ユーストン着08:00とあり、豪勢な造りの寝台専用車が紹介されている。列車内にはシャワーもあるとか。運賃と料金はかなりの金額であろう。犬好きにはペット同行もOKらしい。さすがは動物愛護の国、英国らしいサービス。ただし、犬同行の追加料金がどのくらいかかるのかまでは調べてはいない。(以下、次号)
《資料》
・ピットロッホリー : Wikipedia
・スコットランドの漱石 多胡吉郎 文藝春秋
《写真、上から順に》
・アトール・パレス・ホテル Atholl Palace Hotel資料より
・タンメル川とピトロホリー付近 川の水は澄んでいるが黒っぽい。Scotland Discovery資料より
・スコットランドの漱石 多胡吉郎 文藝春秋 平成16年9月20日発行
・ピトロホリー駅 1960年代 High Life Highland 資料より
・カレドニアン・スリーパー(カレドニアン寝台急行)ピトロホリー駅にて : How to travel to Scotland with your dog. 「The Dogvine」 資料より