2025.11.25
小野 鎭
一期一会 地球旅 389 故郷、筑豊にて
一期一会・地球旅 389
故郷、筑豊にて
故郷、筑豊にて
先ごろ、久しぶりに故郷である福岡県の筑豊盆地、飯塚に帰省してきた。高校卒業式の夜、飯塚駅から急行阿蘇で上京して65年になる。うさぎは追わなかったが盆地を囲む山々は今も美しくそびえている。フナの代わりにウナギを釣りに行った穂波川は今も静かに流れている。昔、豆炭(まめたん:石炭を洗った水の底に溜まった粉炭を固めて作った燃料)を焼く工場の煙が一面に流れて冬は特に煙くてのどが痛くせき込むことも多かった。このあたりを流れている川はどこも黒く汚れており、「ぜんざい川」と呼ばれることもあった。
何よりもの思い出は、ボタ山。小学5年の頃、近所の子供たちとかねてよりやってみたかったボタ山登山を決行!私が一時期、住んでいた住友忠隈炭鉱の炭住街はボタ山に近く、はるか昔から積み始められて、3つの山が扇型にならんでおり、一番右側はすでに積み終わっていた。ボタ石を頂上まで運びあげるケーブルカーは取り外され、多分、レールも撤去されていたと思う。左側二つの山が稼働中で、ボタ石を運びあげては頂上で放出していた。それはあたかも砂山をつくるとき、真上から砂を落としては三角形の山が次第に高くなっていくような感じであった。私たちは、その積み終わって稼働していないボタ山を登って行ったのである。登るにつれて線路跡の地面からはガスの匂いがしていたし、ところどころ煙を出しているところもあった。つまり、ボタ石の中には石炭が残っており、自然発火しては、ガスを噴き出していたのであろう。そういえば、ボタ山の麓には、その熱で温められた湯が温泉のようにわき出しているところがあり、ガス風呂と名付けられて入った記憶もある。稼働中のボタ山は勿論、頂上からボタ石が常時転げ落ちてくるので立ち入り禁止であったし、積み終わって稼働していないボタ山もやはり、立入禁止の札が建てられていたと思う。そんなこととはお構いなしに、私たちは急な斜面を登っていった。 吹きさらしの山は風も強くて、多分、初冬であったと思うので冷たい風を背中に受けながら地を這うように登って行った。突然、かぶっていた帽子が吹き飛ばされた。アッという間もなかった!
学校帰りであったか、一度帰宅して出かけたのかは覚えていないが、飛ばされたのは学生帽であった。その学生帽は市販のものではなく、戦争が終わって復員してきた父が持ち帰っていた海軍士官(中尉)時代の帽子を町の帽子店で造りなおしてもらったものであった。濃紺の羅紗(ラシャ)の生地で作られており、とても格好よかった。色こそ、みんながかぶっている学生帽より少し青みがかっていたが、手触りもかぶり心地もダントツに感じがよく、子どもながらに内心、自慢の品であった。当時、新聞に連載されていた漫画「フクちゃん」の大学帽よろしく私も誇らしげにかぶっていた。父の遺品の中に、帽子の徽章があったことに気づき、改めて見直してみた。海軍航空隊の歌にも歌われている「櫻に錨」が見事に残っている。自分の士官時代の誇りを息子の帽子として作り替えたときの父の複雑な思いを80年近く過ぎた今、改めて感じる。
学校帰りであったか、一度帰宅して出かけたのかは覚えていないが、飛ばされたのは学生帽であった。その学生帽は市販のものではなく、戦争が終わって復員してきた父が持ち帰っていた海軍士官(中尉)時代の帽子を町の帽子店で造りなおしてもらったものであった。濃紺の羅紗(ラシャ)の生地で作られており、とても格好よかった。色こそ、みんながかぶっている学生帽より少し青みがかっていたが、手触りもかぶり心地もダントツに感じがよく、子どもながらに内心、自慢の品であった。当時、新聞に連載されていた漫画「フクちゃん」の大学帽よろしく私も誇らしげにかぶっていた。父の遺品の中に、帽子の徽章があったことに気づき、改めて見直してみた。海軍航空隊の歌にも歌われている「櫻に錨」が見事に残っている。自分の士官時代の誇りを息子の帽子として作り替えたときの父の複雑な思いを80年近く過ぎた今、改めて感じる。
その自慢の帽子を一陣の風に吹き飛ばされ、あっという間に行方不明になってしまった。隣の稼働中のボタ山との間の谷間に飛んでいったのだろう。その時も頂上からはボタ石が転げ落ちていたし、とても怖くて谷間まで下りて探しに行く勇気も元気もなかった。斜面一帯を見回ってはみたが結局見つからず。そのことを父にはもちろん、優しかった母にも話すことはできなかった。軍人魂が身についている父は厳格で怒るととにかく怖かった。間違ったことをいうとか、うそを言うと頬に平手打ちを食らった。自分としては、反省の気持ちはあったが、悔しさと痛さで涙を流すこともしばしばであった。その父が海軍時代に被っていた士官の帽子を造り直してくれた学生帽を、それも立入禁止のボタ山に登って風に吹き飛ばされて失くしたと言えばどんなに叱られるか、とにかく、恐ろしくて言い出すことができなかった。幸い、帽子をかぶらずに学校に行くことがおかしく思われることも無かった。幸運にも(?)その不安な思いは卒業まで露見すること無く過ごすことができた。そして、中学に入り、学校指定の学生帽を新調してもらった。とにかく帽子を無くしたことは痛恨の極みであり、父には申し訳なさでいっぱいであった。ボタ山で失った小学校時代の帽子は今も澱(おり)のように私の脳裏に残っている。「うさぎ追いしかの山」は、私にとっては「帽子追いしかの山」である。
もう一つ、「小鮒釣りしかの川」のこと。筑豊盆地を潤しているのは遠賀川のたくさんの支流である。飯塚の町は穂波川と嘉麻川が合流するところにあり、高校の応援歌にも「穂波河原の・・」とある。この地域には日本有数の筑豊炭田があり、かつて日本一の石炭が生産され、北九州工業地帯の原動力であった。炭鉱で石炭を洗った大量の水が川に放流されていたため、どす黒く汚れた水が流れており、川で遊んで上がってくると身体の表面に黒い筋が幾本も残っていた。それでも、夕方、岸辺に仕掛けをして、翌朝、これを上げるとウナギがかかっていることがあり、これはその日のご馳走であった。
筑豊地方には多くの炭鉱があり、石炭を運ぶ鉄道路線が網の目のようにはしり、旅客より石炭列車の方が多かったと思う。毎朝、家の近くの橋の上で機関車が通り過ぎるとき、煙の臭いをかぐのが楽しみであった。飯塚駅と新飯塚駅は隣り合っているがその両方に急行列車が停車するというのも町の自慢であった。とは言いながら、昭和30年代中期になると蒸気機関車ではなく、箱型の機関車が石炭列車を牽引して走るようになっていた。石炭の代わりに、石油を燃料とするディーゼルカーの登場であった。石炭の町でありながら、何で石油を?と奇異に感じたものであったが「石炭から石油へ」とエネルギー革命が起きていたことを少しずつ感じたのもこの時代であった。
飯塚の町はかつて長崎街道の宿場町として栄えてきたが、昭和の時代は産炭地の中心として町は活気にあふれていた。今は、かつての中心街のアーケード街は、ところどころ商店の明かりが灯っているが通りの向こうまで薄暗く、行き交う人もまばらなくらい。代わりにかつての炭鉱跡の広大な土地にショッピングモールができて賑わっているし、郊外のバイパスの交差点一帯には大型の量販店やファミレス、アミューズメント関係の派手な建物などが並んでおり、さながらミニ・ラスベガスのような光景を見せている。
遠賀川は、サケが遡上する南限の川とされているそうであるが、その支流の一つの彦山川上流には鮭神社なる社があるとのこと。そういえば日本中を自転車で走り回っていた火野正平さんもこの神社を訪れていたのをNHKテレビで見たことを思い出す。
遠賀川の多くの支流が今は清流へと蘇っており、サケの稚魚が放流されているところもあるという。そして、サケの遡上が見られるようになってきており、国土交通省北九州地方整備局でも令和3年にサケを発見したと報じている。
私の母校、福岡県立嘉穂高等学校は、今は移転してその地にはなく、跡地には大型のイベントホールがつくられている。そのわきを流れている穂波川では、いまは清流ともいうべき流れが見られる。その向こうには私も途中まで登ったかつての忠隈炭鉱のボタ山が「筑豊富士」とも呼ばれてそびえている。昔は灰色の三角形の山であったが、今は、緑の木立に覆われており、知らない人はかつて人がつくったボタ山だとは気づかないかもしれない。多くのボタ山は、石炭時代から数十年の間に建設資材として再利用されるとか、地域整備の中で姿を消していったが、今も残るこの山は歴史を語る生き証人としてその端正な姿を見せている。そのふもとにある飯塚駅の駅舎も近いうちに建て替えられるらしい。久しぶりに帰省して見る故郷の山や川、そして町の様子はやはり愛おしい。(この項、終わり。次は、どこへ?)
《写真、上から順に》
・往時の炭鉱とボタ山。左手前が住友忠隈炭鉱、右手奥が三菱飯塚炭鉱:ボタ山、今なお生き続ける筑豊のシンボル:筑豊百景より
・父の海軍士官時代の帽子の徽章
・昭和38年(1963年)頃の飯塚駅、後方が忠隈炭鉱のボタ山:筑豊風土記より
・飯塚市本町商店街の今の姿:2024年 筆者撮影
・飯塚市北郊、国道200号線沿いの大型店舗群、夜はアミューズメント関係のビルのイルミネーションなどでちょっとしたラスベガス:マインド・アベタ提供
・飯塚市とボタ山、左が嘉麻川、右が穂波川:コンパクトシティ飯塚市の暮らし:筑豊百景より