2025.12.08 小野 鎭
一期一会 地球旅 391 大阿蘇から久住への旅(2)
一期一会・地球旅 391 
大阿蘇から久住への旅(2)

久留米を過ぎると間もなく熊本県に入り、南関(なんかん)という地名が見えてくる。母の故郷は、熊本県玉名郡賢木村というところであった。いまは、南関町に含まれている。小学校に入ったころ、何回か遊びに行ったことがある。飯塚から筑豊線で原田へ出て鹿児島本線に乗り換えて瀬高町で降りる。そこからバスで賢木村まで行き、さらに田舎道をかなりの時間歩いてやっと祖父母の家に着いた。朝出て、午後遅く、ほとんど一日がかりだったような気がする。とにかく遠かった。家の両側にはレンゲ畑が広がり、その中に寝っ転がって青い空を眺めるのが楽しみであった。 

ある春の日、一日かけて到着し、さっそくレンゲ畑を見に行ったところ、レンゲが次々に刈り取られている最中だった。自分はてっきり祖父母の家の田んぼであると勝手に思い込んでいたのだが、それはよその農家の所有地であった。家畜の飼料にするのかそれとも敷き藁として使うのか、いずれにしても次々に刈り取られていることに違いはない。自分があれほど楽しみにしているレンゲが刈り取られるということで猛烈な怒りを覚えた。作業をしているおじさんに文句を言おうと田んぼへ突進していった。雑草に覆われた傾斜地は、滑りやすく、そこを転げ落ちて下の方にあった岩に頭をぶつけて頭部に怪我をした。あっという間もなく、顔面いっぱいに血が流れ出し、かなりの傷だったのだろう。レンゲどころではなかった。 

泣き叫んでいる私を見て驚き、祖父母たちは、ガーゼや手拭いでとりあえず手当てをしてくれた。偶々来ていた母の兄(叔父)が私をリヤカーに乗せて数時間前に降りたバス停近くにある医院まで連れて行ってくれた。リヤカーの上では頭から顔にかけて手拭いで覆われていたがその間も出血し、顔中ジュクジュクしていたことを覚えている。それ以上のことは覚えていないが、いまもレンゲ畑を見ると子どもの頃の大けがを思い出す。ケガは頭であったのか額(ひたい)であったかは覚えていないが、今はその傷も残っていないらしい。「らしい」というのは自分の身体のことでありながら不確かな表現だが、額には傷らしいものは残っていないし、頭部にもそれらしい傷跡は無いと思う。有ったとしても昔は頭髪で隠れていたと思うが、頭髪とは縁遠くなった今もやはり気づかない。80年近い時の流れを改めて感じる。
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南関地域を過ぎると熊本市の市街地を迂回するかのように走り、やがて益城熊本空港SAが近づく。2016年の熊本地震で大きな被害が出たと聞いた地名が出てくる。熊本城の復旧工事が報じられるとか、阿蘇大橋が落下して悲惨な犠牲者があったことなども大きく報道されていたことも思い出す。8年前に宮城県の石巻や南三陸町を訪れて大震災の跡を見学して祈りをささげたが、今回は熊本地震の被災地にも連れて行ってもらえることを願っている。 

やがて九州道を下りて、東へ向かった。九州中央自動車道と表示されている。地図を見ていると吉無田高原であるとか、井無田高原という地名があることに気づく。案内を見ると共に阿蘇外輪山の南すそ野に広がる標高6~700mの高原とある。そういえば、福岡県には大牟田がある。牟田や無田は草が繁っている沼状の土地を指し、水が近いところという意味らしい。はるかな昔、阿蘇の外輪山に囲まれた大きな湖があり、その周辺に草が茂った沼沢地などが広がっていたのだろうか。外輪山の裾野にあたる高森町、山都町や御船町などにはたくさんの川が流れており、西は緑川となって島原湾、東は五ヶ瀬川となって日向灘へ注いでいることが分かる。いずれにしても阿蘇山の規模の大きさを地図上からも知ることができ、これからその山懐に入って行けると思うとさらに期待が高まってきた。 

九州中央自動車道は、建設続行中で今は、山都町通潤橋ICで終わっている。ここからすぐのところに最初の目的地「通潤橋」がある。中学の頃、社会科の授業で熊本県には、通潤橋という人工の水路があり、江戸時代に造られたという話を聞いていた。妹たちがここに行ってみようと提案してくれたので真っ先に賛成し、期待していた。ここが最初の目的地、そこからこの日の周り先をいくつか考えてくれていた。子どものころ、母の田舎である玉名郡賢木村(現在は、南関町)まではほとんど一日がかりでやっとたどり着いた感じであったが、現在はそれよりさらに遠く、熊本県の中ほど近くまで3時間で到達した。時の流れを改めて感じる。
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通潤橋は、阿蘇の外輪山の南側を流れる五老ヶ滝川(緑川水系)の谷に架けられた水路橋で、水利に恵まれなかった白糸大地へ通水するための通潤用水上井出(うわいで)水路の通水管が通っている。橋の長さは78m、副因は6.3m、高さは20m余、アーチ間は28mとある。橋の上には、3本の石管が通っている。肥後の石工の技術レベルの高さを証明する歴史的建造物であり、国宝に指定されている。橋と白糸台地一帯の棚田景観は、「通潤用水と白糸台地の棚田景観」の名称で国重要文化的景観として選定されている。この橋の建造は江戸時代末期の嘉永7年(1854)、地元の惣庄屋であった布田保之助が中心となって計画を立案、資金を集めてこの橋を建設したとある。
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通潤橋は今も使われており、定期的に放水されている。この橋を上から見学するためには、棚田わきの坂道を登っていくことになるが、杖を使っての歩行には少々難ありというわけで自分としてはそこまで至らず、駐車場わきから遥かに橋の全景を眺めながら放水を待った。今年は日本各地で熊の出現があり、大きな被害が出ているが通潤橋の駐車場にも大きな熊が愛くるしい目をして立っていた。こちらは一緒に並んで写真を撮るのに格好のモデル、くまモンの歓迎である。やがて、13時15分から橋の両側から一斉放水され、遠目にも壮観であった。
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通潤橋見物の前に、そこから200mほど下流に五老ヶ滝があり、そこにも立ち寄った。落差50mの滝を正面から眺めるためには曲がりくねった急坂と階段下りがなかなか厳しかった。当然、帰りはもう一度この坂道を上らなければならず、さらに難儀。少々音を上げたいところであった。五老ヶ滝は、自分にとっては「ご苦労の滝」であった。さほど有名ではないのか、インバウンド客始め見物客は自分たちのほかにはだれもおらず、秋の陽を受けて、まぶしい飛沫をあげていた滝の姿が印象的であった。写真を見るとやはり行って良かったとしみじみ感慨にふけっている。
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石造りのアーチ橋といえば、2013年、家人と次男と私の3人で南仏プロヴァンス地方への旅で「ポン・デュガール」を訪れた。高度な建築技術を今に伝える古代ローマの水道橋でアヴィニヨン近くにある。またローヌ川に架けられたサン・ヴェネゼ橋は「アヴィニヨンの橋の上で」というフランス民謡でも知られており、共に世界遺産として登録されている。家人が橋の上でカメラを構えていたことが思い出される。(以下、次号) 

《資料》 
通潤橋:Wikipediaより 

《写真、上から順に》 
・石巻市立大川小学校 震災で被災した学童などへの慰霊碑に詣でる。:2017年10月 筆者撮影 
・放水中の通潤橋:2025年10月18日 筆者撮影 
・通潤橋では大小のくまモンが歓迎してくれた:2025年10月18日 
・五老ヶ滝:2025年10月18日 筆者撮影 
・ホン・デュガール(フランス):2014年10月 筆者撮影