2014.04.09
小野 鎭
小野先生の一期一会地球旅①【旅行業従事50年を経て感じること】
旅行業従事50年を経て感じること
小 野 鎭
今年の4月1日で旅行業従事50周年を迎えた。 紆余曲折のときを過ごしてきたが、ここで懐かしい日々のいくつかを思い出してみたい。 期待に胸ふくらませて藤田航空サービス株式会社に入社したのは、1964年(昭和39年)。この年は、我が国旅行業・観光業に於いてはまさに画期的な年であったと思う。同じ4月1日に海外旅行が自由化されており、外貨購入枠が500ドルと制限されてはいるものの、希望者は海外へ観光旅行に行くことができるようになった。それまでは、国費などによる留学や業務出張、国際会議など公的な裏付けがなければ海外へは行けなかった。この年10月に東京オリンピックが開催され、これへ向けて東海道新幹線の営業開始、羽田空港から都心までの首都高の開通など、終戦から19年経た我が国は高度経済成長が始まっていた。右肩上がり、という言葉がよく使われ、日本中が躍動感に溢れていた。 子供のころから鉄道大好き、暇さえあれば地図を眺め、大きくなったら旅行会社に入り、日本中そして世界中を回りたい、という素朴な願いを抱き続けていた。大学では、地理学を専攻して卒論では「最近の訪日外国人観光客の動向について」を述べた。当時、旅行業は、インバウンド(訪日客の受け入れ)が花形で、特に米国からの観光客の受け入れが多く、「外人旅行部」で働くことが夢であった。しかしながら、英会話能力はお粗末で、残念ながらそれはかなわず、「業務部予約課」に配属された。国際線航空便の予約や航空運賃の計算と航空券の発券、当時はすべてタリフ片手にすべてが手計算、そして手書きであった。結果としてこれは大変幸運で、世界中の地名や都市間の距離、様々なルールを覚えるのに役立った。1964年の海外旅行者数は、諸説あるが、法務省の統計では、127,749人とある。航空運賃は、というと香港まで往復106,350円(エコノミークラス)、西海岸まで281,900円、欧州まで463,500円、これに対して代理店へのコミッション(手数料)は7%、香港は7,444円、西海岸19,733円、欧州32,445円であった。私の初任給は、15,500円。つまり、西海岸まで一人売ると、新入社員が一人、欧州だと2人雇える、そんな時代であったようだ。今と比べると隔世の感がある。 私の手元にこの50年間の添乗記録と航空機の利用内容を記したノートがある。このノートと今日まで233回の海外添乗の旅程表の綴りは私にとっては何物にも代え難い宝物である。 初めての添乗は、1966年1月 香港と台湾への1週間であった。それにも増して、印象深いのは67年11月8日から12月2日まで25日間の欧州であった。北回りアンカレッジ経由で降り立ったのはまさに霧のロンドンであった。長年の煤煙と濃霧で何とも薄暗い町の風景は今もまざまざと覚えている。145名のお客様が3台の貸切バスに分乗、ドーヴァー海峡を渡って欧州大陸を南下していった。添乗員は自分を含む4名、うち一人は経験豊富な先輩であり、毎日、順に指導を兼ねて応援に同乗してくれた。ベルギーのオステンドに上陸し、ブリュッセル、ケルン、ハイデルベルク、チューリヒ、アルプス越えをしてミラノ、フィレンツェ、ローマ、ナポリ、もう一度ローマ、ピサ、ジェノア、ニース、マルセーユ、リヨンと回ってパリへ。ホテルには、「Ato Hitoiki, Ganbare!」と会社からTelexが届いていた。当時、勿論E-メールなどはなく、通常のやり取りは航空郵便か急ぎの場合は国際電話、航空便やホテルの予約などのビジネスはTelexが使われていた。初冬のパリ、マロニエの並木道に焼き栗のにおいが漂っていた。コンコルド広場からシャンゼリゼ大通り、はるか遠くに凱旋門が見えていた。夢にまでみた風景が現実に目の前にあり、夢中で見入り、お客様の記念写真のシャッター幾度も押したことが懐かしく思い出される。小野(おの) 鎭(まもる) (株式会社 SPI あ・える倶楽部 CFO補佐)