2015.10.21 小野 鎭
一期一会地球旅78「21世紀の平和を願って その1」

一期一会 地球旅 78

21世紀の平和を願って その1

手元に「世界に響け 21世紀の平和のための第九コンサート」という写真と記録の書がある。2000年5月にニューヨークのカーネギーホールでコンサートが行われたがそれに至るまでの苦労と紆余曲折が思い出される。私たちは心で歌う目で歌う合唱団が1989年に設立され、今年で27周年を迎えたがニューヨークで行われたこのコンサートは合唱団の歩みの中でも最大のイベントであったと思うし、
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私が関わった旅行の中でもとりわけ印象の強いものである。今でも当時を振り返るとよくあれだけのエネルギーが湧きだしたものだとしみじみ思う。 95年にニュージーランド、翌年は、京都で行われたコンサートに参加し、そのあと神戸から瀬戸大橋を通って四国は松山へ、と国内での大型旅行もあった。97年、フランスの旅から戻ってその年の夏、ゆきわりそうで毎年行われている群馬でのプログラムに参加した。妙義山の麓にある山荘「小さな家」で行われた夕方のバーペキューで盛り上がり、それまでの旅行についての様々な思い出を語り合っては大笑いしたり、しみじみ振り返ったりのひと時であった。そして、間もなく合唱団創設から10年になるのでそれを記念したコンサートはどうだろう、ドイツ、ニュージーランドとやってきたので、次はアメリカでもできるといいですねなどの発言もあった。しかしながら、その場は漠然とした話題に終わった。 それからしばらくして、アメリカのことがまた話題となり、西海岸のサンフランシスコ それとも日系人の多いロサンゼルス? ニューヨーク? などいろいろな町が出てきた。いつもそうであるが、どうやってそれをやるかは、二の次、とにかくどこかの国の名前や町が出てきて、なぜそれをやるのか? どのように準備していくのかなどは後から出てくることが多かった。 そこで、筆者は、アメリカならニューヨークでしょう、マンハッタンには大きな教会もあるし、その会堂の荘厳な雰囲気の中で歌うのは素晴らしい、またはどこかのホールもあるかもしれないですね、そのためにはどうすればアプローチできるのか、どのような方法があるのでしょうか?などの話をしたことを覚えている。勿論、ニューヨークにはカーネギーホールやリンカーンセンターなどがあることは知っているが、そこは超一流のプロのステージであり、我々にはおよそ手が届かず、縁のない場所、そんな思いであった。とは言いながらも、何らかの方法は無いだろうか?と密かに決意して長年のパートナーである現地手配会社(ツアーオペレーター)の北米ツアーズに相談した。 待つこと暫し、得た情報は次のようなものであった。カーネギーホールはプロのみと決まっているわけではなく、アマでもホール側の受け入れ趣旨に合致すれば借りることができるし、事実、米国の合唱団や何かのグループの出演もある。使用料は極端に高いものではなく、むしろ、2000余の席を埋めることができるのかなどが難問かもしれない、などのことを知った。
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勿論、オーケストラや指揮者を準備しなければならないし、そのための経費が莫大なものであろうとは容易に想像がつくことであった。何といっても、アメリカというよりは世界経済の中心地、すべてが金のニューヨークであり、コンサートに要する経費はどのくらいになるのかおよそ見当もつかなかった。それを承知で、このことを合唱団とゆきわりそうの代表である姥山氏に伝えたところ、ニューヨークについて真剣に考えてみよう、ということになった。 合唱団がニューヨークに行くことはできても、現地側での諸準備を進めるには協力者が必要である。コーディネーターといってもいいであろう。 現地手配会社は、旅行手配についてはプロであっても大掛かりな演奏会のための業務はおよそ手の届くことではあるまい。そのためには、現地での足掛かりが必要であり、それを探さなければならない。 しばらくして、合唱と演奏、諸準備を受け持ってくれそうな音楽関係の組織として心当たりが見つかった、との連絡があった。果たして、コンサートへ向けた合唱団の構成、その趣旨と目的などをどこまで理解してくれるか、希望通りの動きをしてくれるだろうか、経費はどのくらいになるのだろうか、話が進めば進むほど、次々に疑問が出てきた。98年の春先から夏ごろにかけてであったと思う。 実は、筆者はその頃、明治航空サービスの代表取締役に就いていた。社は創立後30年近くを経ていたが、これまでに経験したことのない危機状態にあった。わが国は、90年代に入ってそれまでの好景気から一転し、いわゆるバブル経済が破たんして国中が不況のどん底にあり旅行業も多くの会社が苦しんでいた。わが社も少し遅れてではあったが苦しい状態にあえいでいた。視察や研修旅行などを得意としていたわが社の顧客は多くが地方自治体や社団、財団などの法人団体であった。その経営母体自体に公的補助や応援があったので、税収が落ち込んでくると次第に法人自体の活動に影響が及んでいた。研修団などの派遣も次第に緊縮財政のあおりを受けて旅行費用そのものが厳しくなったり、小型化されたり、中止されるところもでてきていた。 一般の旅行では、それまでの中身の濃い旅行から短期間に数多くを周遊し、大人数を集客して旅行代金の低廉化を図るために新聞などで格安旅行がたくさん紹介されるようになっていた。それらの旅行と、研修や視察旅行は準備そのものに多くの手間暇がかかっており、本質的に内容の密度が違っており、旅行代金は遥かに高額になる。旅行主催団体では、ある程度の違いは分かっても、旅行代金の大幅な低廉化が求められたり、価格面の入札が行われるなどもあり、泣き泣き受注せざるを得ないこともあったし、営業実績は大きく落ち込んでいた。そのような時代が数年来続き、収益構造は益々悪化してきており、ひところは60人を超えた社員数も45人くらいに減っていた。そのような状況下での代表取締役就任であり、得意な営業分野だけに関わっていることは立場上からも出来なかった。実際には、社の業績は一層悪化の一途をたどっていた。事業計画の総体的な見直し、巷間いわれるところのリストラや仕入れ内容など厳しい経営計画改善をメインバンクN金庫から求められ、厳しい指摘があり抜き差しならない状態に陥りつつあった。なんとか事態を好転させるためには、少しでも多くの仕事をして、収益を上げ、乗り切っていくしかないというのが当時の手段であった。きりきりと胃が痛む日が続いた。 そのような状況下で、ゆきわりそうやかなりの医療や福祉関係団体からは変わらぬ仕事をいただいていたし、当社の業務に対して信頼を寄せてくださっていた。日曜ごとの合唱練習には参加できないことも多くなっていたが、ニューヨーク計画は少しずつ進展していた。夏も終わる頃、北米から紹介してきていたニューヨークのMという音楽事務所の代表者Peter某との接触に成功したとのことでその後、直接手紙のやり取りが始まった。当時は、電話やFAXが依然として主要な通信手段であったが、そのやり取りもスムーズであった。9月の終わりには、看護視察団で訪紐する機会もあり、直接Pとも会い、本格的な話を進めることができそうな気がした。これらの話を持ち帰り、11月に下準備のため、代表以下で訪紐する計画が進められた。会社の経営状態は一層厳しくなっていたが、絞り込んだ経営改革とリストラ、営業の促進で何とか乗り切ろうと自らに対して誓っていた。その切り札としての、200人以上にもなるであろうと予想される合唱団の旅行は大きな存在であった。いわば、社が瀕死の状態にあり、一方でトンネルの向こう側に小さな灯りを見出してそこへ向かって必死にもがき続けている気分であった。社は次第に険悪な雰囲気が広まっていたが、何とか起死回生の道を見出したい、そんな思いで、ニューヨークへ向かった。 (資料  上から順に) 世界に響け、21世紀の平和のための第九コンサート 記念誌 (2001年7月 発刊) カーネギーホール (1998/11/4)

(2015/10/19)

小 野  鎭